済州島の4.3事件と対馬の供養塔

4.3事件の犠牲者の遺体が対馬まで流れ着いていたこと、その犠牲者のための慰霊碑があること、いずれも初めて知りました。

いずれは現地を訪れて見てみたいと思います。

(社説余滴)対馬済州島を結ぶ碑 中野晃
2019年10月13日05時00分

 国境の海が広がる。

 対岸の韓国・釜山(プサン)からわずか50キロ。対馬長崎県)の北端、佐護(さご)湾の海辺に「供養塔」と刻まれた四角い石碑が立つ。

 9月の日曜日、日韓の市民約60人が集まり、記者も手をあわせた。韓国の済州島(チェジュド)で約70年前にあった「4・3事件」の犠牲者の冥福を祈るためだ。

 石碑は、対馬市の江藤幸治(ゆきはる)さん(62)が12年前に建て、追悼を重ねてきた。

 その前年、亡父に海岸の岩場に連れ出された。

 終戦の数年後、連日のように水死体が漂着、火葬して弔ったが、数が増え、穴を掘って埋葬したという。あわせて数百体に及び、着衣から韓国の人と分かったそうだ。「歴史を伝えた」父は間もなく他界した。

 対馬から潮流をさかのぼると、済州島沖に連なる。

 1948年4月3日、南北分断に反対する勢力が武装蜂起。官憲の容赦ない鎮圧が数年間続き、数万の島民が虐殺された。体を縛られて海に投げられた人も大勢おり、対馬にも流れ着いたとみられている。

 「済州4・3犠牲者遺族会」の宋承文(ソンスンムン)会長(70)は約20年前に対馬を訪れ、漂着した遺体を取材した地元紙の記者に会った。数珠つなぎにされ、柿渋で染めた済州島特有の着衣だったと聞き、目が潤んだ。

 いにしえから朝鮮半島との交易の窓口となり、今は釜山と航路で結ばれる対馬も、こじれる日韓関係のあおりで韓国からの観光客の姿はまばらだった。

 慰霊祭は、国境をこえた関係者の尽力で実現した。宋さんは「政治と離れて、対馬でも慰霊祭が続き、痛ましい歴史が多くの人に伝わって欲しい」と話した。

 開催を呼びかけたのは奈良県に住む詩人の金時鐘(キムシジョン)さん(90)。4・3事件で官憲に追われ、生きるため、済州島から大阪へ逃れた。

 日本が支配した植民地朝鮮で生まれ育ち、解放後は南北分断の憂き目を味わった金さんは「歴史の共有」が日韓関係をほぐす鍵と説く。密接に絡んでいながら日本で知られていないことがあまりにも多いと嘆く。

 金さんは「韓日の民心をほぐす慈しみの塔」を建てた江藤さんの手を握り、頭を下げた。心をひとつにする実直な取りくみの大切さを、国境の島で学んだ。

 (なかのあきら 社会社説担当)

https://digital.asahi.com/articles/DA3S14216262.html