名古屋商科大・中村順司監督退任

PL学園を退任してから、もう17年になるんですね。あの当時の強かったPL学園を知らない人も、ずいぶん増えたことでしょう。



名古屋商大・中村監督が退任 「KKコンビ」などPLで6度全国制覇
2015年11月25日6時0分 スポーツ報知


名商大中村順司監督

 PL学園高の監督として「KKコンビ」など多くのプロ選手を育てた名古屋商大・中村順司監督(69)が今年度限りで監督を退任し、来年4月1日付で総監督に就任することが24日、分かった。後任は上川恭宏コーチが昇格する。

 中村監督はPL学園高時代、甲子園歴代最多の春夏計6度の優勝を達成。教え子に桑田真澄清原和博松井稼頭央福留孝介らがいる。98年春のセンバツ後に退任し、99年に母校・名古屋商大の監督に就任。17年にわたって指揮を執ってきたが、今年度でひと区切りをつけることになった。今秋は2部Bリーグ6位だった。

 関係者によると、来年4月に総監督に立場は変わるが、以降も指導は続け、後任の上川監督をサポートする。系列校の名古屋国際高でもアドバイスする可能性もあり、広い立場で名将の力を注ぐことになりそうだ。

 ◆中村 順司(なかむら・じゅんじ)1946年8月5日、福岡・中間市生まれ。69歳。PL学園高から名古屋商大を経て、社会人のキャタピラー三菱で内野手として活躍。76年にPL学園高のコーチとなり、80年に監督に就任。甲子園に春夏計16度出場し、歴代2位の通算58勝(10敗)をマーク。98年春のセンバツを最後に勇退。99年から名古屋商大監督に就任した。

http://www.hochi.co.jp/baseball/ama/20151124-OHT1T50174.html

名将・中村順司氏の指導哲学「高校野球は社会の縮図」
2015/8/6 6:30

 PL学園高(大阪)の監督として春夏の甲子園で計6回の優勝を誇り、甲子園で通算58勝を挙げた中村順司・名古屋商大硬式野球部監督。桑田真澄清原和博のKKコンビをはじめ、数多くの選手をプロ野球に送り出した名将にとって、今年で全国大会の誕生から100年の節目を迎えた高校野球とは、どんな舞台だったのか。指導哲学などを聞いた。


インタビューに答える中村順司・元PL学園高監督

 ――監督を務めた1981年からの18年間は、有力な選手が各地から集まった。プロを目指す超高校級の選手もいる中で心がけた指導とは。

 「高校生だから、選手たちはみんな甲子園に行きたいと思っている。でも、僕は選手たちに甲子園という言葉をひと言も言わなかった。プロ球界に進めるのは一握りでも、より多くの教え子に大学や社会人でもプレーを続けてもらうのが目標だったから『高校で終わりじゃないぞ』と、ことあるごとに言いながら指導に当たった」

■ハードで長時間より効率的な練習

 ――チームを強くするための練習とは。

 「うちは全寮制で部員が最大60人ということもあり、全体練習ではレギュラー組と控え組に分けなかった。全員が同じメニューの中でやることで、互いの力量が分かり、チーム内の競争意識も高まる」

 「監督就任の前にコーチを4年間した経験から、ハードな練習を長時間やるよりも、効率的な練習をしたほうがいいと感じていた。全体練習は、例えば午後2時半に始まったら午後6時すぎには終わらせ、あとは自主練習をさせた。それぞれの課題、テーマを自覚させる意味もあるし、疲れ切って寮に帰り、ばたんきゅうの生活で『もう、野球をやりたくない』という燃え尽き症候群になってしまってはいけないと思った」

 ――甲子園で最も思い出に残る試合は。

 「1試合と言われたら困るけど、監督として初めて甲子園に行き、足ががたがた震えながら采配を振るった1981年選抜初戦の岡山理大付高との試合かな。スタンドの大観衆に背後からも見つめられ、追い立てられるような錯覚を起こした。甲子園では何かサインを出して手を打たなきゃと焦ったとき、やるのは選手なんだから、選手が日ごろの力を試合で出せるよう、適切にアドバイスをすればいいんだと思い起こせたのが大きかった」

 「その大会の決勝戦では『おい、今日は泥んこになって暴れ回ってこい』と言って選手を送り出した。そうしたら、吉村禎章(元巨人)たちが試合前、一塁側のベンチ前にあるグラウンドの土を顔に塗って試合に臨み、逆転で優勝。汚れた顔で校歌を歌っている姿を見て『勝つぞ』とか『優勝するぞ』と言うよりも、思いが素直に伝わったと思った」

■桑田、清原も苦しみと努力で成長

 ――桑田、清原の1年生コンビを擁し、甲子園3連覇を目指した池田高(徳島)のエース水野雄仁(元巨人)を打ち砕いた83年夏の準決勝が印象深い。

 「よく右打者は右方向に打てとかそういう指導をするけれど、水野くんの球はそんなことをできるような球じゃないと思った。ファウルでカウントを稼がれて追い込まれるんだったら『思いっきり振ってこい。インコースに来たら引っ張れ』という表現をした。負けてもともと、ぐらいの気持ちで臨んだのが勝利につながった」

 ――最強世代といわれるKKコンビを率いた思い出は。

 「もともと2人が1年のときは、あのチームが甲子園に行くとは思っておらず、僕自身はこれからのチームだなと思っていた。それが大阪大会で勝ち上がり、全国優勝するわけだから。高校野球の怖さと素晴らしさを知った」

 「清原は高校1年の夏の甲子園に出たとき、重圧から神経性の下痢になった。バットを振っても力が入らない。そういう状況で、投球をよけようとしてバットに当たった打球が右前に落ちて幸運な甲子園初安打になり、そこから気持ちが変わった。桑田も清原もスーパースターに成長したけど、そこにたどり着くまでのプロセスでは非常に苦しんだと思う」

 「清原は3年春の選抜準決勝で伊野商(高知)の渡辺智男くん(元西武)に3三振を食らった。試合に負けて寮に戻ったその日の夜、雨天練習場で黙々とマシンの速球を打ち込む彼の姿を見た。あの日から、毎日300回の素振りを欠かさなかったという。節目、節目の厳しい結果を振り返り、彼らは努力を重ねていた」

■一つの目標に挑戦、貴重な経験に

 ――指導の根底にあったものは。

 「僕がPL学園に入学した年、野球部が初めて甲子園の土を踏んだ。そのときに教団から贈られたのが『球道即人道』という言葉。今でも野球部のモットーになっている教えを実践しようというのが、18年間の監督生活の思いだった。相手に敬意を払って戦うのもその一つ。84年の選抜で対戦した砂川北高(北海道)の監督から後年、『安打を放った教え子が塁上で清原からナイスバッティングと声をかけられたことを喜んでいる』と聞いたときは本当にうれしかった」

 ――高校野球100年にあたり、球児に伝えたいメッセージとは。

 「長い人生で高校3年間はわずかな時間。この期間に一つの目標に挑戦する経験は貴重だ。自分がアウトになっても走者を進める送りバント、自分のところに打球が来ていなくても全力疾走する守備のカバーリングなど、野球は人間社会の縮図だとも思う。痛恨のエラーをして試合が終わることもあれば、三振をした子がサヨナラ安打で取り返すこともある。高校野球で勝った喜び、負けた悔しさをその後の人生に生かしてほしい」

 ――PL学園野球部は今春から新入部員の募集を停止している。廃部の危機にある現状をどう思うか。

 「校歌には『永遠(とわ)の学園』とあるし、やはり寂しい思いがある。OBはみんな、同じ思いだろう。ただ、まだ消滅したわけじゃない。少しでも希望がある限り、今の選手たちの活躍を祈っている。また復活してほしい」

(聞き手は常広文太)

 中村順司(なかむら・じゅんじ) 1946年8月5日、福岡県生まれ。PL学園高を経て、名古屋商科大に進学。社会人野球でプレーした後、76年からPL学園のコーチを務め、80年秋に監督に就任。81年春の選抜で優勝すると、84年の選抜決勝で敗れるまで甲子園20連勝をマークした。98年選抜を最後に勇退するまで、春夏ともに3度優勝。甲子園での通算成績は58勝10敗。現在は名商大硬式野球部の監督を務めている。

http://www.nikkei.com/article/DGXMZO90169810V00C15A8000000/