戊辰戦争当時の会津藩士埋葬に関する史料の発見

このニュース、最初に見かけたのは毎日新聞の記事でしたが、調べてみると福島民報がだいぶ先に報じていたんですね。


会津藩士埋葬の史料発見 「戦死屍取仕末金銭入用帳」の写し

 戊辰戦争会津藩が降伏した直後の1868(明治元)年10月、戦死した藩士らが埋葬されていたとする史料が会津若松市で見つかった。従来は、西軍(新政府軍)が遺体の埋葬を許さなかったとされてきたが、埋葬場所、埋葬経費などが詳細に記されている。

 見つかった史料は「戦死屍取仕末金銭入用帳」の写し。筆者は不明だが、写しは会津藩の要職を務めた藤沢内蔵丞(ふじさわ・くらのじょう)の子孫が約40年前に市に寄贈した史料約170点のうちの1点。会津歴史考房を主宰している野口信一さん(68)が昨年12月、市史史料目録を整理するため史料を借り受け、内容を確認していた際に発見した。

 写しによると、1868年10月3日から同17日にかけ、会津藩士4人が中心となり、鶴ケ城郭内外などにあった567体の遺体を発見場所周辺の寺や墓など市内64カ所に集めて埋葬した。発見当時の服装や遺体の状態、名前が記載されているものもある。このうち、蚕養神社の西の畑にあった22体は近隣の60代女性が西軍の武士に頼み、近くに葬ってもらったとの記載がある。

 戊辰戦争のうち会津戦争では会津藩士ら約3000人が亡くなったとされる。西軍は遺体の埋葬を許さず、降伏から半年後の1869年2月に現在の会津若松市七日町にある阿弥陀寺に改葬が始まるまで、野ざらし状態だったと言い伝えられてきた。地元の歴史関係者によると、この対応が長年、西軍側との感情的な溝を築く要因の一つとなってきた。

 野口さんは「伝染病の発生など衛生面を考えても半年間、遺体が放置されたというのはあり得ない。史料から少なくとも500人以上が埋葬されていたと分かる」と話している。

( 2017/09/25 10:22 カテゴリー:主要 )

http://www.minpo.jp/news/detail/2017092545375

野口信一さんと言えば、歴史研究家という以前に、会津若松市会津図書館の館長を務め、会津若松市史の編纂にも関わっている方です。会津史に最も精通した郷土史家の一人と言っていいでしょう。

会津 とっておきの歴史

会津 とっておきの歴史

地元出版社である歴史春秋社から出るという『会津戊辰戦死者埋葬の虚と実 戊辰受難者祭祀の歴史』、詳細はまだネット上に出てはいませんが、これは読んでみたいですね。

歴史春秋社

戊辰戦争 戦死した会津藩士埋葬の記録発見 定説覆す
毎日新聞2017年10月3日 08時41分(最終更新 10月3日 08時41分)

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戊辰戦争後に会津藩士が埋葬されていたことを記した資料=福島県会津若松市で2017年10月2日、湯浅聖一撮影

 幕末の戊辰(ぼしん)戦争(1868年)で戦死した会津藩士のうち少なくとも567人が、藩の降伏から10日ほど後に埋葬され始めたとする史料が福島県会津若松市で見つかった。同市在住の歴史研究家、野口信一さん(68)が2日、市役所で記者会見し発表した。これまでは新政府軍が遺体の埋葬を許さなかったとされてきたものの、史料には埋葬の場所や経費などが詳細に記されており、野口さんは「埋葬を裏付ける貴重な史料だ」と話している。【湯浅聖一】

 史料は「戦死屍(せんしかばね)取仕末金銭(とりしまつきんせん)入用帳(にゅうようちょう)」。会津藩で要職を務めた藤沢内蔵丞(くらのじょう)の子孫が、1981年に若松城天守閣博物館へ寄贈した史料174点の一つ。野口さんが昨年12月、市史史料目録の編さん準備をしていた時に発見したという。

 史料(縦11.5~12.5センチ、横27~33.5センチ)は計34ページ。会津藩降伏後の10月3~17日に、明治政府の「民政局」の命令で会津藩士4人が中心になり、鶴ケ城郭内外などにあった567人の遺体を周辺の寺など64カ所に埋葬したと記されている。

 遺族が身元を確認できるよう、発見時の服装や状態、家紋なども図入りで残され、埋葬に関わった人足の数や人件費なども記載されていた。このうち蚕養国(こがいくに)神社の西側の畑に埋葬された22体は、近くに住む年配の女性が、新政府軍の人足に頼んで葬ってもらったことなども書かれていた。

 戊辰戦争では会津藩士ら約3000人が死亡。新政府軍は遺体の埋葬を許さなかったとされ、降伏から半年後の1869年2月に阿弥陀寺(同市七日町)に改葬されるまで野放し状態だったと言われることが多く、それが新政府軍だった旧長州藩と感情的な溝をつくる要因の一つにもなっていた。野口さんは「史料の信頼性は高い。旧長州藩への怨念(おんねん)が取り除かれれば」と話した。

 史料は今後、市歴史資料センター(まなべこ)で公開する予定。

https://mainichi.jp/articles/20171003/k00/00e/040/142000c

戊辰戦争>戦死の会津藩士「半年間野ざらし」定説覆る 「降伏直後埋葬」示す新史料

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「戦死屍取仕末金銭入用帳」について解説する野口さん

 戊辰戦争(1868年)で戦死した会津藩士の遺体が会津藩降伏直後に埋葬されたことを示す史料が見つかったと、会津若松市史研究会副会長の野口信一さん(68)が2日、発表した。遺体は新政府軍が埋葬を禁じ、半年間野ざらしにされたと伝えられてきた。

 会津若松市民の長州藩山口県)に対する感情的なしこりの一因になった埋葬禁止説が覆るとして、野口さんは「藩士がすぐに埋葬されたことが分かり、喜ばしい」と話している。

 史料は「戦死屍取仕末(せんしかばねとりしまつ)金銭入用帳」で、戦死者の埋葬や金銭支払いが記入されている。市から調査を受託する研究会が昨年12月に発見。地元在住の会津藩士子孫が1981年に若松城天守閣博物館に寄贈した史料に含まれていた。

 それによると、新政府は会津藩降伏の10日後の10月2日(旧暦)、埋葬を命令。翌3~17日、会津藩士4人が中心になって567人を64カ所に埋葬した。経費は74両(約450万円)。延べ384人が動員され、1人当たり1日2朱(7500円)を支給していた。

 家紋の図など遺体発見当時の服装が詳細に記され、女性や子どもの遺体もあった。大砲隊を指揮した山本八重の父山本権八の遺体や、一族21人が自刃した家老西郷頼母邸で発見された遺骨、白虎隊士と思われる遺骨の記述もある。

 野口さんは「69年2月に阿弥陀寺へ改葬したことを半年も放置したと誤認したと思われる。埋葬禁止説は昭和30年代以前はなかった」と説明。「長州への怨念の障壁が取り除かれ、会津若松市民と山口県萩市との友好関係が築けたらうれしい」と期待する。

 野口さんは史料についてまとめた「会津戊辰戦死者埋葬の虚と実 戊辰受難者祭祀の歴史」(歴史春秋社)を11日に出版する。会津若松市資料センターはコピーを1枚20円で頒布する。

2017年10月03日火曜日

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201710/20171003_63036.html

会津藩士「埋葬の史料」発見 戊辰戦争、開城後の記録詳しく
2017年10月03日 09時55分

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会津藩戦死者の埋葬を記した新史料

 戊辰戦争会津藩が1868年9月22日に降伏開城した後の会津藩戦死者約3000人の遺体埋葬で、同年10月に500人超の埋葬に携わった会津藩士が記した史料が見つかった。会津若松市史では、鶴ケ城城下を統治した民政局が「10月2日に埋葬を命じた」とあり、藩士側の記録からも埋葬を裏付ける結果となった。藩士側の埋葬の史料もほかに確認されているが、内容がより詳しい。

 会津若松市の歴史家・野口信一さん(68)が2日発表した。会津藩士の子孫が1981(昭和56)年、同市に寄贈した史料174点の中から発見した。「戦死屍取仕末金銭入用帳(せんししかばねとりしまつきんせんにゅうようちょう)」との史料名で、10月3~17日の戦死者埋葬とその費用を記載する。筆者不明だが、藩士の武田源三、赤羽彦作、斎藤茂助、水野平八が遺体の捜索や埋葬に携わった。

 4人が鶴ケ城の城下や郊外などを捜索し、64カ所に567体を埋葬したことを記している。一部だが、埋葬者の服装、袖印や家紋などの図、遺体の状態、名前が分かる。飯盛山で自刃した白虎隊士を指すとみられる記述には「8人が切腹したと聞く」とあり、既に村人によって埋葬されていたという趣旨だった。

 会津若松市史によると、10月2日に民政局から遺体を埋葬するよう通達があり、埋葬作業が始まった。町役人の記録によると開城後1カ月がたっても遺体は残っていた。藩士から正式な埋葬の嘆願があり、融雪を待って翌69年2月から市内七日町の阿弥陀寺への改葬が始まったという。

 野口さんは「全ての遺体を埋葬したわけでなく、翌年になっても散在する遺体の捜索が続いていた」とした。新政府軍が遺体の埋葬を許さなかったとの言い伝えを完全否定し、「昭和40年代以降に言われるようになった話。新政府軍への遺恨の一つを考え直す契機でもある」とした。

http://www.minyu-net.com/news/news/FM20171003-209054.php

ま、そもそも、野口さんよりもずっと以前、昭和30年代から40年代にかけて長らく会津図書館長を務めていた大村武一は、山口県立萩図書館から請われて会津に移ってきた人物でした。当時そのことが問題になったという話はありません。逆に、大村は会津の地を深く愛し、退職後も会津若松にとどまり、その地で没したと言います。