旧制八高の学徒出陣とクラス日誌

たまたま目についたこの記事は旧制八高のものですけど、同様の資料で眠っているものはまだあると思うんですよね。失われてしまう前に、各地各校での地道な掘り起し作業が必要でしょう。

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名大・旧制高 「クラス日誌」公開 理系生徒、戦時の本音
毎日新聞2018年8月14日 20時59分(最終更新 8月14日 22時46分)

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八高の理科系生徒がつづった「クラス日誌」=名古屋大大学文書資料室で、加藤沙波撮影

 名古屋大学の前身・旧制第八高等学校(八高)の理科系生徒が学徒出陣など戦時中の出来事や思いを記した「クラス日誌」が、名古屋市千種区の名大の大学文書資料室で公開されている。戦地に赴く文科系生徒への気遣いや戦局の冷静な分析がつづられ、資料室の担当者は「自由に発言できなかった時代の若者の本音がうかがえる貴重な史料」と話す。

 日誌は理科系2年6組の生徒たちが1943年5月12日~44年4月13日につづり、B5判約190ページに30人以上の記述が見える。戦後にガリ版印刷で複製されたとみられる。約10年前に八高同窓会が資料室に寄贈し、昨秋から公開している。

 学徒出陣を巡っては、東条内閣による「学生の徴兵猶予の停止」が伝えられた43年9月22日、「来るべきものは竟(つい)に来た。今日は我々にとつて実に(太平洋戦争開戦の41年)十二月八日である」との記載がある。

 理科系生徒は兵器研究などを理由に徴兵が猶予された。11月25日の記述では、文科系クラスに出征を控えた親友がいるらしい生徒が「勉学を中止して 客観的に之(これ)を見れば誠に気の毒である<中略>便所の中に“理科生ヨ 後ヲタノム”と記してあつた<中略>それを涙なくして読み得なかつた」と複雑な心情を吐露している。

 八高卒業生らの記念誌などで、当時の理科系と文科系の生徒間に「溝」があったと記されている。日誌でも「(理科系は)余りにも無関心であるのではなからうか」「文科の生徒に対して相済まぬと思ふ<中略>(自分は)今直ちに前線に立つて働ける丈の信念と勇気があるだらうか」と書かれている。

 43年は山本五十六連合艦隊司令長官の戦死やアリューシャン列島・アッツ島での玉砕など戦況が悪化していた。日誌には「学業を以(もっ)て敵撃滅に邁進(まいしん)しよう」との記述がある半面、「ヤマトダマシヒにも限度がある」「“日本は○ける”」(○は伏せ字)といった言葉も並ぶ。

 資料室の堀田慎一郎・特任助教(日本近代史)によると、東海地方は学徒出陣関連の史料がほとんど見つかっていない。文科系の学校が少ない上、戦災などで失われたとみる。

 堀田氏は日誌について「教員らの目に触れないよう、ひそかに書いたのだろう。国のために戦死することが名誉とされた時代に、出征する文科生を“無念”と思いやるなど、本音が出ているのが特徴的で非常に珍しい史料」と指摘している。【加藤沙波】

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佐藤茂壽さん=名古屋市東区で2018年7月2日、加藤沙波撮影

徴兵猶予へ理系志願も

 戦況悪化に伴い政府は1943年10月、それまで猶予されていた大学・高等学校・専門学校の文科系生徒・学生も徴兵対象に加え、同月21日に明治神宮外苑(東京都)で出陣学徒壮行会を開いた。東海地方でも11月ごろに各学校で壮行会を開催し、仮卒業証書を授与するなどした。学徒兵の総数は10万人以上とも言われるが、正確な数は分かっていない。

 理科系生徒・学生は徴兵猶予が継続され工場などに動員された。42年に八高に入学した加藤一三(いちぞう)さん(93)=名古屋市東区=は「マルクス経済学を学びたかったが、戦争に駆り出されるかもしれないと思い、理科系に進学した」と話す。理科系の名古屋薬学専門学校(現・名古屋市立大)や岐阜薬学専門学校(現・岐阜薬科大)は、44年の入学志願者が例年を大幅に上回ったとの記録が残る。

 名古屋高等商業学校(現・名古屋大)OBで現役の税理士、佐藤茂壽(しげとし)さん(94)=名古屋市千種区=は在学中の45年に徴兵され、満州(現在の中国東北部)で物資輸送に関わった。「行きたくないなんて本音は出せなかったが、泳いででも生きて帰ってくる気持ちだった」と振り返る。学徒出陣から75年。「平和が当たり前の世の中になったことが何よりありがたい」と話した。【加藤沙波】

https://mainichi.jp/articles/20180815/k00/00m/040/105000c