九大箱崎キャンパス放火自殺事件のビハインドストーリー

読むのも辛い記事なのですが、ウェブ上の記事はいずれ見られなくなる可能性もあるので、こちらにクリップ。

雇止め・無職・困窮、そして野垂れ死にの予感…。どれも他人ごとではなく、特殊なケースでもありません。私は、結果として運良く生き延びているだけです。

九大箱崎キャンパス火災 元院生の男性 放火し自殺か 身元判明、福岡東署
2018年09月16日 06時00分

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卒業生の46歳男性が火災で亡くなった福岡市東区九州大学箱崎キャンパス=7日午前

 福岡市東区箱崎6丁目の九州大箱崎キャンパスで7日朝に研究室を焼いた火災で、福岡東署は15日、焼け跡から見つかった遺体は研究室に出入りしていた同区の職業不詳の男性(46)と発表した。署によると、死因はやけどによる火傷死。男性が放火、自殺したとみて調べている。

 署は、現住建造物放火か、非現住建造物放火の疑いで、男性を容疑者死亡のまま書類送検することも視野に入れている。

 男性は九大法学部の卒業生。署によると、研究室の内側からテープで目張りがされた上、遺体の近くに灯油用のポリタンクやライターがあった。自宅からは、9月上旬にポリタンクを購入した際のレシートも見つかったという。

 九大によると、男性は大学院に進学し、2010年の退学後も研究室を使用。大学院は、9月末に同市西区の伊都キャンパスへ移転を完了する予定で、男性に再三退去を求めていた。

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■困窮、研究の場も無く 「経済破綻に直面」知人に訴え 非常勤職失い複数のバイト

 福岡市東区九州大学箱崎キャンパスの火災で亡くなった卒業生の男性(46)は、2010年の退学後も常勤の研究職を目指していたが、非常勤職を“雇い止め”に遭うなどして困窮を深めた。家賃の支払いも滞り、肉体労働を掛け持ちして研究室で寝泊まりするようになった。そこに学舎の移転が重なる。「耐乏生活を強いられる」「経済破綻に直面」-。男性は親交のあった大学関係者に宛てたメールで、苦しい胸の内を訴えていた。

 複数の関係者によると、男性は15歳で自衛官になったが退官し、九大法学部に入学。憲法を専攻し、1998年に大学院に進学した。修士課程を修了して博士課程に進んだが、博士論文を提出しないまま2010年に退学となった。

 ドイツ語を勉強し、文献の校正ができるほどの力を付けた。生前は少なくとも県内の二つの大学で非常勤講師を務める傍ら、教授の研究補助もしていた。元教授は「授業の発表も丁寧で、論文を書く能力もあったのに」と振り返る。

 大学側によると、男性は15年以降、研究室を1人で使用。ただ、顔を出すのは夜間で、ほかの院生と接触しない“孤立”状態だった。

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 そんな男性が、信頼した九大関係者に心の内をメールで明かしていた。

 月末払いの家賃を振り込もうとしましたが、金額が足りませんでした。経済破綻に直面しています(昨年6月1日)

 3、4月はほぼ無給だったことや、専門学校の非常勤職が“雇い止め”となり、5、6月の月収は14万5千円とつづった。

 10万円借りることができました。なんとか過ごせそうです(同月4日)

 男性は同月から昼間に週4回、宅配便の仕分けのアルバイトを始めた。

 昼のバイトを始める時73キロあった体重が、現在61キロ(今年3月12日)

 昨年12月からは夜も週4回、肉体労働の別のバイトも掛け持ちしていた。

 研究室の移転も始まっています。宝くじが当たるなどしない限り、泥沼から脱出できないでしょう(7月27日)

 この頃は夜のバイトを週6回に増やし、研究室に寝泊まりする状態だった。

 時の経過とともに、事態は悪化しています(8月9日)

 大学側から研究室退去の要請を受けていたが、片付けに着手していなかった。

   ◇    ◇

 「院生はみな厳しい現実を共有していた。私が彼だったかもしれない」。男性をよく知る研究者は声を落とす。

 大学院生が研究を続けて「教授」や「准教授」といった常勤職を得るのは容易なことではない。文部科学省によると、博士号取得者または博士課程の単位取得者で、大学などに任期付きで籍を置きながら研究を続ける人を「ポストドクター」と定義し、1万5910人(15年度)に上る。男性は「ポスドク」に当たらないが、大学側も今年5月までは「ポスドク」と誤解して研究室の利用を黙認していた。

 男性と長年交流のあった元九大教授の木佐茂男弁護士は、男性の心中をこう推し量る。「彼は純粋に研究する場が欲しかったはず。労働と研究の両立が困難で、思いあまったのかもしれない。(学舎と)一緒に灰になってもいいと思っていたのではないか」

=2018/09/16付 西日本新聞朝刊=

https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/450029/

九大箱崎キャンパス放火・自殺事件~「貧困」という切り口から見えてくるもの
みわよしこ | フリーランスライター(科学・技術・社会保障・福祉・高等教育)
9/17(月) 3:02

2018年9月7日、九大・箱崎キャンパスで火災が発生し、元大学院生だった46歳の男性が遺体で発見されました。

男性は、自殺目的で放火したものと見られています。

本記事では、事件を「貧困」という切り口から検証します。

男性の46年の生涯について

 「男性」と呼びつづけるのは、あまりにも気の毒なので、本記事では「Aさん」とします。

 Aさんの過去について、報道されている事実は非常に少なく、アウトラインをつかむのも困難です。しかし、やや詳細に報道されている西日本新聞の9月16日付記事「九大箱崎キャンパス火災 元院生の男性 放火し自殺か 身元判明、福岡東署」から整理すると、Aさんの歩みは、以下のようになります。

  • 2018年9月7日時点で46歳だった→出生は1971年または1972年(本記事では1972年とします)
  • 15歳で自衛隊に入隊(1987年)
  • その後自衛隊を退官し、九大法学部に入学。憲法を専攻
  • 1998年(26歳)、同大学大学院修士課程に入学
  • その後博士課程に進学するも、博士論文は提出せず、2010年に退学(38歳)
  • 2015年(43歳)以後、研究室を一人で使用していたが、夜間のみ。他の院生とは接触していなかった
  • 2017年3月、専門学校等の非常勤職を失う
  • 2017年(45歳) 3月・4月はほぼ無給
  • 同年5月・6月の月給は145000円
  • 同年6月、家賃が払えなくなる。昼間、宅配便の仕分けのバイトを週4回はじめる
  • 同年12月からは、夜間も週4回肉体労働のバイトをはじめる

(2017年6月から2018年7月までの間に住居を喪失したとみられる)

  • 2018年(46歳)7月 寝泊まりしていた研究室の移転が開始される
  • 2018年8月「事態が悪化」と親しい人々に記す。大学から研究室退去要請を受ける
  • 2018年9月6日 研究室に放火。遺体で発見される

「15歳で自衛隊に」が意味すること

 Aさんが中学校を卒業したと思われる1987年、高校進学率は93.9%でした。中学校の40人のクラスのうち2人は、少なくともその年には高校進学しなかったことになります。

 中卒での就職の推移に関する資料を探してみましたが、詳細が掲載されている資料は昭和40年代までしか見つけられませんでした。昭和50年代になると、若年労働に関する政府統計などにも、中卒での就職者は「いることはいる」という形でしか現れなくなります。

 1987年、新規高卒に対する有効求人倍率は0.87(政府統計による)。就職を希望する高校生のうち、少なくとも13%は就職できない計算になります。この時期、中卒の求人に関しては、それ以上に厳しい状況だったはず。有力な選択肢は「自衛隊」「病院の看護助手になり准看護師学校に行って資格を取る」のいずれかでしょう。現在なら「介護」も選択肢に入るかもしれませんが、介護保険が発足したのは2000年です。

 いずれにしても、「Aさんが中卒で自衛隊に入隊した」ということからは、高校進学が困難な家庭環境だった可能性、場合によっては社会的養護のもとで育った可能性、しかしながら人物・学力は好ましく評価されていた可能性が考えられます。

大学入学まで

 Aさんが九大法学部に入学した年次は報道されていませんが、何らかの手段で大学受験資格を獲得し、受験したのでしょう。1998年(26歳)で大学院修士課程に進学したということですから、もし学部で留年・休学などがなく、学部卒業から大学院進学までの間にブランクがなかったのなら、1994年(22歳)で大学進学したことになります。

 この間、バブル景気とともに新卒に対する求人が増加しました。高卒に対する有効求人倍率は、1989年に前年の0.9から1.47へと跳ね上がり、増加を続け、1993年には3.08に達します。しかしその後は減少し、1995年には1.35となります。この後、2000年代前半には0.5~0.6程度を推移することになります。

 いずれにしても、Aさんが自衛隊を退官してから大学入学を果たすまでの時期は、中卒でも仕事が探しやすかったと思われます。家出などによって自活の必要に迫られている17歳の少年が、「19歳で高卒」と言い張っても、深く詮索されることなく就職できる時期でもありました。現在の「高認」にあたる「大検」に対する認知は、その5年前・10年前に比べると、好ましいものとして広まっていました。Aさんは、働きながら大検で大学受験資格を取得し、受験勉強に励み、九大法学部への入学を勝ち取ったのではないかと推察されます。

大学生活は? 大学院生活は?

 大学に進学すると、当然ながら学費が必要です。また、学業に励むための生活費も必要です。私が気になるのは、Aさんが学費や生活費をどのように工面していたのかです。

 ここから先は推測にしかなりませんが、学生支援機構(2001年度までは日本育英会奨学金の借り入れは、避けることができなかったでしょう。学業成績は優秀だったようですから、学費は免除されていたのかもしれませんが、学費免除の対象となる学業成績を維持するためには、学修に充てる時間が必要です。すると、アルバイトは最小限にせざるを得ないはず。民間の給付型奨学金は、数年の浪人に相当する年齢から、困難だった可能性が高そうです。すると、学生支援機構奨学金しかありません。

 大学院に進学しても、事情はあまり変わりません。むしろアルバイトをする時間の余裕は、学部時代より少なくなります。学部4年間・修士課程2年間・博士課程3年間、学生支援機構奨学金の貸与を受けていたとすると、合計金額は少なくとも数百万円の桁になります。

 博士課程では、日本学術振興会特別研究員になれば生活費を受けとりながら研究に励むことが可能ですが、当時の年齢制限が「セーフ」でも、通常の院生より高い年齢が好ましく評価されることはなかったでしょう。ちなみに、年齢制限が撤廃されたのは2010年を過ぎてからのことです。

 いずれにしても、学生支援機構奨学金が借りられるのは、標準修業年限の期間だけです。修士2年間、博士3年間が経過した2003年以後は、別の手段で生計を立てる必要があります。つまり「働く」ということですが、必然的に研究の継続は困難になります。

 ともあれ、博士課程に在学していた2010年まで、奨学金の返済は猶予されていたはずです。

博士課程退学後-奨学金の返済は?

 2010年、Aさんが博士課程の学籍を失うと、奨学金の返済が始まったはずです。

 2017年6月、Aさんは月額145000円の収入がありながら、家賃を払えなくなりました。私はここで「あれっ?」と思ったのです。2018年9月現在(10月から引き下げられますが)、46歳の単身者に対する福岡市の生活保護基準は、112720円(うち36000円は住宅扶助)です。近年の福岡市は、地方都市の「住みやすさ」がほぼ感じられない大都市になってしまいましたが、それでも月あたり145000円あれば、単身者用の安めのアパートの家賃が払えなくなることは考えにくいです。もしかすると、同年3月・4月の無給状態のときに水道・電気・ガス・携帯電話などの未納があり、その支払いにお金が消えてしまったのかもしれませんが。

 もしもAさんが、奨学金を返済していたのであれば、「それは、暮らせないでしょう」ということになります。1ヶ月あたり4万円の返済があれば、Aさんの手取り収入が145000円でも、使える生活費は月あたり105000円となり生活保護基準を下回ります。

住宅喪失と悲劇の最期 - そのための生活保護なのに!

 2018年のAさんは、研究室に寝泊まりしていました。おそらく、その前の時点で住居を喪失したのでしょう。しかしその研究室も退去せざるを得なくなり、放火と自殺という結末に至りました。

 Aさんの2017年3月~6月の状況を見ると、Aさんは生活保護の受給資格があったと考えられます。この4ヶ月のうち、収入があったのは5月と6月、月あたり145000円でした。月平均にすれば72500円。生活保護基準をはるかに下回ります。報道されている限り、血縁者を頼れた可能性は、まったく報道されていません。預貯金はほとんどなかったことでしょう。生活保護の受給資格は、少なくともこの4ヶ月間に関していえば、確実にあります。

 その後のAさんは、宅配便の仕分けや肉体労働のバイトで生活を支えていました。しかし、そこまで働いても住宅喪失に至りました。なぜでしょうか? 

 私には「奨学金の返済では?」と思われてなりません。申請すれば、低収入による返済猶予の対象となったはずの状況ですが、あまりにも不安定な生活状況の中にいると、調べ物や手続きが極めて困難になります。低く不安定な収入が人間から知力を奪うことは、数多くの研究で実証されています。

 そして結局は家賃が払えなくなり住宅喪失した成り行きを見ると、奨学金の返済猶予を受けたとしても、生活保護の対象となり得たのではないかと思われます。生活保護の対象となっている期間、奨学金の返済は猶予されます。とりあえず、一息つけます。

 Aさんに、生活保護を受けてほしかった。私は心から、そう思います。

 憲法学を専門としていたAさんが、生存権生活保護を知らないわけはありません。もしかすると、「自分は働けるんだから対象にならないはずだ」と思い込んでいたのかもしれません。あるいは、生活保護で暮らしている人々に対する「自立支援」こと就労指導の熾烈な実態を知っていて、「生活保護になったら研究はおしまい」と思っていたのかもしれません。

 それでも生活保護を受けて、まずは落ち着いた生活を取り戻し(そうさせてくれるかどうかは福岡市と福祉事務所とケースワーカーしだいなのですが……)、バイトしたり、さまざまな能力やスキルを活かせるブラックではない仕事を探したりすること、つまり余暇時間がある職業生活を営むことはできたはずです。余暇時間に何をしようが本人の自由です。研究に打ち込むことに使うこともできます。

 しかし、今から何を言っても、失われた生命は戻りません。

 おそらくは生涯を、貧困のアリ地獄のような状況の中で過ごされ、努力にもかかわらず脱却できないまま亡くなられたAさんのご冥福を、心より祈ります。

https://news.yahoo.co.jp/byline/miwayoshiko/20180917-00097130/