【大邱の風景】慶北大学校医科大学・慶北大学校病院
前回の続きでちょっと小ネタ。
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国債報償運動記念公園から次の移動に向けて歩きます。目指すは慶大病院駅。
北京で「北大」と言えば北京大学であり、ソウルで「東大」と言えば東国大学校であるように、大邱で「慶大」と言えば慶北大学校です。ちなみに昌原で「慶大」と言えば慶南大学校、釜山で「慶大」と言えば慶星大学校です*1。それぞれの市内はそれでいいとしても、慶尚道や全国のレベルで対戦でもしたらめんどくさいでしょうね。
それはそれとして、国債報償運動記念公園から慶大病院まで1キロもないのですが、その道沿いに、慶北大学校の医科大学・歯科大学・看護大学と大学病院が集まっています。医科系学部がこの市街中心部の東仁洞にキャンパスを構えているのは、前身の大邱医学専門学校(1923年設立)時代からの地縁なのでしょうか。
医科大学の建物はこんなですからね。規模ではソウル大学校医科大学に及びませんが、それでもなかなか立派です。
上の胸像はヒポポタマス…じゃないヒポクラテスなのでさほど興味は湧きませんが、建物の手前には「6.25参戦戦没学友追慕碑」が見えます。
設立母体として碑の裏に「五三春秋会」(1949年入学、1953年卒業の同期会)とあります。そのメンバーの一人・李烈煕には、Wikipediaにこんな説明が載っています。歯科医である彼自身、朝鮮戦争には軍医として参戦し、後には慶北大教授として歯科大学の独立に尽力して大学長(学部長)や地域の歯科医師会会長を歴任したといいます。
この碑を目にしてなかったら、こんな人物のことは知らないままだったでしょうね。
ともあれ、大邱・慶北地域は朝鮮戦争当時に激戦地となったこともあり、植民地時代からあるこの建物もそうした戦争を経験しています。
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でもって、この慶北大医科大学本館に向かい合って立っている建物も、1928年建設の歴史ある建物です。
もともとは慶尚北道立大邱病院として建てられ、大韓民国独立後に大学附属病院となったということです。
この建物については、嶺南日報のこの記事が非常に詳しく紹介しています。
また、言うまでもなくここは大邱地域の医療のセンターの一つであり、今は新型コロナウイルスの診断・治療の拠点病院となっています。日韓ともに今の混乱と危機を乗り越えて、また何の気兼ねもなくこのあたりを街歩きできるようになることを願っています。
*1:この他、晋州の「慶大」=慶尚大学校というのもあるのですが、どこまで一般に言われているか、定かではありません。用例はどうも多くはなさそう…。