湖北・海津大崎の桜の由来

琵琶湖一周ドライブ大好きな私としては、海津大崎は特に好きな場所の一つなのですが、こういう由来があるのは知りませんでした。知っている人は知っている有名な話なんでしょうけど。

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そうと知って思い起こされるのは、海津大崎に通じる道の佇まいです。広くて走りやすい道とは言えませんが、近代以前の街道でも戦後規格の舗装道路でもない独特の雰囲気。あれは、ここにあるような昭和初期の県道補修工事の名残りだったんですね。

あー!滋賀行きたい!琵琶湖回りたい!

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滋賀)始まりは、少年のヒーローが植えた苗木 海津大崎
筒井次郎 2020年4月28日 10時00分

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琵琶湖沿いの道に連なる海津大崎の桜並木。湖上の船からも花見ができた=2020年4月3日午前10時39分、滋賀県高島市マキノ町海津

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琵琶湖沿いの道に連なる海津大崎の桜並木。サイクリストも多く見られた=2020年4月3日午後0時11分、滋賀県高島市マキノ町海津

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琵琶湖沿いの道に連なる海津大崎の桜並木=2020年4月9日午後0時10分、滋賀県高島市マキノ町海津

 「ムネトおっちゃん」は、神谷正(まさし)さん(82)=京都府京田辺市=にとって少年時代のヒーローだった。

 終戦直後の1945年12月。復員した滋賀県職員の父の仕事で、現在の高島市マキノ町に引っ越した。

 当時7歳。色白で背が低い転校生は「まちの子」と呼ばれていじめられた。おっちゃんは一緒に魚釣りをし鶏小屋も作ってくれた。

 父の工事事務所で働き、長身で日焼けした赤銅色の顔がたくましい。毅然(きぜん)とした姿は輝いて見えた。

 週末になると、自転車の後ろにつけたリヤカーに桜の苗木を載せて出かけた。決まって「ぼん(坊やのこと)、行ってくるわ」と声をかけた。

 植えられた桜を一度だけ、大人に連れられて見にいった。若木だったが「みごと」と映った。でも6年生の冬、父の転勤で引っ越した。お礼も言えなかった。

 その後、神谷さんは会社員になった。毎年届く桜の便りは、気にはなったが後回しに。定年後しばらくたった春、久しぶりに見にいった。大きく育ち言葉が出ないほど素晴らしかった。

 2016年、このことを朝日新聞「声」欄に投稿すると、おっちゃんの親族から手紙が届いた。満開の桜の下で思い出を語り合った。

 海津大崎の桜並木だ。

 「これが、ムネトおっちゃんの偉業なんです」

 おっちゃんは宗戸(むねと)清七(せいしち)さん。昭和初期から約20年間、植え続けた。その数、数百本。青年団や地元の人に輪は広がり、琵琶湖北岸の有名な観光地になった。

 いま湖岸の道沿い約4キロにわたり、800本のソメイヨシノがトンネルを作る。

 当時、土道だった県道を補修する仕事をしていた。くぼみに土砂を埋め、盛り上がった場所は削って平らにした。重労働だ。疲れを癒やしたのは、湖と沖に浮かぶ竹生島の風景だったそうだ。

 「愛着のある道に何かを残したい。桜の並木があれば華やかになる」。そんな思いから桜を植え始めた――。宗戸さんの名が刻まれた石碑はそう語る。

 神谷さんはいま思う。「それだけだったのだろうか。おっちゃんの願いは」

 苗木は自費で購入した。見返りのない無償の行為だ。宗戸さんは21歳だった長男を戦地で失っていた。「途中からは鎮魂の気持ちで桜を植え続けたのでは」

 神谷少年が引っ越した2年後、57歳で亡くなった。遺志を継いだ地元の人たちが、豪雪や崖崩れに遭っても守り続けてきた。

 いまや琵琶湖を一周するサイクリングロード「ビワイチ」随一の景勝地だ。桜の下を、サイクリストたちが通り過ぎていった。

=おわり(筒井次郎)

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