【尼崎の風景】吹上霊園

尼崎のお墓そぞろ歩き。目標となるお墓は各地に点在しているので、ネタに困ることは当分ありません。

続いては吹上霊園。所在地の住所は武庫之荘。最寄りも阪急の武庫之荘駅です。徒歩ならまあ、20分かからない程度ですかね。

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このあたりは、もともと武庫村。武庫之荘といえば尼崎でも高級住宅街のイメージがありますけど、1937年に武庫之荘駅ができる前は農村地帯であり、その後、戦後にかけて駅周辺の住宅開発が進んだ場所です。

武庫庄 むこのしょう 出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

地元では「むこんしょ」と発音している。武庫地区の大字。市域北西部に位置する。弥生時代の武庫庄遺跡がある。中世の武庫荘の中心地であったと考えられる。史料上の初見は1190年(文治6)「内宮役夫工科未済注文」(吾妻鏡/『尼崎市史』第4巻)。

近世初期には幕府領、1617年(元和3)尼崎藩領となった。村高は「慶長十年摂津国絵図」に222.7石、「元禄郷帳」「天保郷帳」に325.691石とある。また、天和・貞享年間(1681~1688)「尼崎領内高・家数・人数・船数等覚」(『地域史研究』第10巻第3号)には家数32軒、人数147人、1788年「天明八年御巡見様御通行御用之留帳」(『地域史研究』第1巻第2号・第3号)には27軒、119人とある。富松井組に属した。氏神須佐男神社(近世には牛頭天王社)。ほかに春日神社があったが1907年(明治40)須佐男神社に合祀された。

1889年(明治22)以降は武庫村、1942年(昭和17)以降は尼崎市の大字となった。1978年の住居表示により武庫之荘本町となったほか、一部が武庫之荘武庫之荘東となった。

執筆者: 地域研究史料館

http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php?key=%E6%AD%A6%E5%BA%AB%E5%BA%84

武庫村 むこむら 出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

1889年(明治22)4月の町村制施行によって、当時の常吉組戸長役場管轄区域(西昆陽・常松・時友・友行・常吉・西武庫・東武庫・武庫庄・西富松・生津・守部の11か村)がそのまま武庫村となった。人口は2,965人(1889年末)、村役場は常吉村の旧戸長役場におかれた。1937年(昭和12)阪急電鉄武庫之荘駅を開設し、その周辺に住宅地を開発したので人口も漸増したが、1942年2月11日尼崎市と合併した当時もようやく1万900人にすぎず、全体としてはなお純農村地域であった。

執筆者: 山崎隆三

http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php?key=%E6%AD%A6%E5%BA%AB%E6%9D%91

武庫之荘駅(阪急電鉄) むこのそうえき(はんきゅうでんてつ)
武庫之荘駅より転送) 出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

阪急電鉄武庫之荘駅は園田駅が開設された翌年、1937年(昭和12)10月に駅北側の阪急住宅地の売り出しと同時に開設された。駅名は、はじめは「武庫ノ荘」であったが、小林一三の意見で「ノ」を「之」に改めたという。武庫之荘住宅地は総面積6万坪、戸数70戸、1戸当たりの面積が100~200坪、値段は7,300~1万9,000円で、広くて新しい住宅街として注目された。駅南側に南改札口が設置され、駅前広場がつくられ市営バスが乗り入れるようになったのは1970年のこと。それまで駅南側には田園風景が広がっていた。なお、1937年の駅の開設とあわせて南側のプラットホーム沿いに植えられた桜並木は今では約80本となり、春にはその木々に公募した短冊が結ばれ“ホームで花見”に興をそえている。

執筆者: 津金澤聡廣

http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php?key=%E6%AD%A6%E5%BA%AB%E4%B9%8B%E8%8D%98%E9%A7%85

武庫土地区画整理事業 むことちくかくせいりじぎょう 出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

市西北部にあって、武庫川に接した武庫豊町・武庫町・武庫元町・武庫之荘の各一部で63.7haを対象に、公共団体(市)により1959年度(昭和34)から1967年度まで施行された。事業費は3億7,000万円。戦時中の1942年、この地区は広範囲な防空緑地として指定され、県がその土地43.3haを買収して一部はグライダーの滑空場として整備したが、戦後、農地改革により大部分が解放された。市はこの地区に大学の誘致や大規模公園の設置等を検討していたが、一部7.1haを県営公園に、一部を年々膨張する人口対策として住宅公団の団地(建設戸数2,192戸)を誘致することに決め、前記の緑地指定を整理して両者を包括した周辺整備を土地区画整理事業により実施した。地区は阪急電鉄武庫之荘駅から約1.2kmと近く、武庫之荘住宅街に沿接した戦後初の市施行宅地造成事業として完成した。竣工時には、交通公園を主体とした県営西武庫公園・公団住宅等に見学者が絶えなかった。

執筆者: 枝川初重

http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php?key=%E6%AD%A6%E5%BA%AB%E5%9C%9F%E5%9C%B0%E5%8C%BA%E7%94%BB%E6%95%B4%E7%90%86%E4%BA%8B%E6%A5%AD

ということで吹上霊園。武庫之荘駅からここまでの道、よく観察してみれば、かつて農村であった面影、その後新たな住宅として開発されたという履歴が、感じられるような気がします。

場所的には武庫東小学校の目の前になります。

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ここは、入り口すぐところに由来記を刻んだ石碑があります。この地域の区画整理と宅地化を受けて、古い墓地の整備が行われ、今に至ることがわかります。

「友行」はこの辺りの大字ですが、地名としては「武庫之荘」の陰で消滅したといいます。

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友行 ともゆき 出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

武庫地区の大字。市域北西部に位置する。弥生~古墳時代の道ノ下遺跡・南戸板遺跡があり、また時友にかけて平安~鎌倉時代の時友遺跡がある。史料上の初見は1277年(建治3)「醍醐寺報恩院領年貢注進状」(醍醐寺文書/『尼崎市史』第4巻)で野間村友行名〔みょう〕とある。野間荘の名田開発領主名に由来する地名であろう。隣村の時友も同荘の名田であり、中世から近世にかけて野間荘が野間・時友・友行の3村に分離していったものと考えられる。

近世には1617年(元和3)旗本長谷川氏(守知系)知行所、1632年(寛永9)大部が同氏守勝系に分知され、残る小部は1646年(正保3)幕府領、1694年(元禄7)武蔵国忍藩阿部氏(忠吉系)の領地、1823年(文政6)幕府領、1828年尼崎藩領となった。村高は「慶長十年摂津国絵図」に295.2石、「元禄郷帳」「天保郷帳」に300.862石とある。富松井組に属した。氏神須佐男神社(近世には牛頭天王社)で時友と立会、寺院は高野山真言宗白衣観音寺(旧称観音寺)、ほかに近世には真言宗瑞光山常法寺があった。

1889年(明治22)以降は武庫村、1942年(昭和17)以降は尼崎市の大字となった。1978年の住居表示により武庫之荘となったほか、一部が武庫之荘本町・西昆陽〔こや〕となり、友行という地名は消滅した。

執筆者: 地域研究史料館

http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php?key=%E5%8F%8B%E8%A1%8C

綺麗に整理された墓域内には、尼崎市内の他の墓地と同様、明治から江戸期の墓地が散見され、軍人墓のほか、無縁化した墓碑を集めた一角を見ることもできます。

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土地の由来を知り、近代の歴史を知ってからこの墓地を眺めれば、そこにはもうないものも含めて、いろんな物事について考えることができます。