金融都市・大阪の歴史遺産

大阪市内って、ごく一部を除いて緑が少ないことなどもあり、正直いって住みたいとは全く思わないのですが、近代都市としてみれば、けっこういろいろな歴史建築が残ってて面白いところです。金融都市・大大阪の在りし日の面影に過ぎないと言われればそうなんですけどね…。

ともあれ、こんな風に歴史を紐解いてみると、ただ眺めているよりも、いろんなことを想像することができて楽しいです。

銀行支店番号に再編の痕跡、金融都市・大阪の歴史映す
とことん調査隊
関西タイムライン 2021年3月9日 2:01

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会社の近くの銀行の支店で口座を開設した際、通帳にある「店番号」を見てふと疑問が浮かんだ。「この番号、どう決まっているんだろう?」。大阪は国内初の手形交換所が誕生した金融都市。背景を探ると、世紀をまたぐ銀行再編の歴史、関西に残る金融遺構の数々が見えてきた。

疑問の発端は三菱UFJ銀行の瓦町支店(大阪市中央区)だ。記者が子どものお年玉を預けようと開設した口座の通帳には、店番号が「003」とある。東京の本店(001)と丸の内支店(002)に次ぐ番号だが、なぜいきなり大阪の瓦町支店なのか。

全国銀行協会によると、各銀行は1973年から全国銀行データ通信システムを介して振り込みなどを行い、各口座を4桁の各金融機関コード、3桁の店番号、口座番号で識別。ただ、店番号は各行独自に決めており、並び順のルールも明確ではないという。

90年代のバブル崩壊を経て銀行の再編が進み、支店の整理・統合の際、各行は顧客の不便を避けるため、以前の店名と店番号をできるだけ引き継ぐ配慮をしたとされる。これが瓦町支店の謎に関わる。

三菱UFJ銀によると、前身の東京三菱銀行で1桁の店番号は001、002だけ。もう一方の前身、UFJ銀行は大阪を本拠にした三和銀行などが源流で、瓦町支店の003は同行から引き継がれた。大阪の船場支店(004)や玉造支店(007)なども三和の名残というわけだ。

驚いたのは瓦町支店の歴史の深さだ。1879年(明治12年)、大阪の両替商を前身とする山口銀行の本店として開設され、昭和初期に鴻池銀行三十四銀行との3行合併で三和銀行が誕生。同行瓦町支店として歩んできた。

次は堺筋を200メートルほど南へ。ここに、りそな銀行の本店ビルがある。同行で最も若い店番号は、意外なことに奈良の天理支店(005)。広報担当者が「奈良銀行の名残でしょう」と教えてくれた。

同行の前身は大和銀行。2000年代にあさひ銀行奈良銀行と合併した。大和銀の店番号は基本的に100番台が大阪市内、200番台が大阪府内で、りそな銀もほぼ同様の並び。合併した奈良銀などの店番号は、合併時に重複していなければそのまま使用していることが多いようだ。

大和銀の源流は1918年設立の大阪野村銀行(証券部門は後の野村証券)。24年建築の同行本店ビルの柱の一部は、りそな銀本店前に残る。さらに南へ1キロ、みずほ銀行南船場支店のあった所にも壮麗な柱が。銘板によると「旧第一勧銀高麗橋支店の正面玄関」にあった石柱で、26年建築の同支店からの移築物だ。

歴史的建築では三井住友銀行大阪本店も見逃せない。第1期工事の竣工は26年で、前身の住友銀行の本店営業部として使われた。今も三井住友銀の大阪本店営業部(101)が入り、現存する天井のステンドグラスが美しい。案内してくれた安部尚・管理部推進グループ長は「通勤のたび伝統を感じます」と誇る。

住友銀の店番号の始まりは100番台で、200番までは全て大阪府内の店舗だ。さくら銀行と合併し三井住友銀になった後も、ほぼ受け継がれており、大阪を拠点とした住友の存在感を今に残す。

一方、北浜地区の大阪中央支店も36年完成と古く、神殿風の列柱が目を引く。店番号が「710」なのは元が住友銀ではなく、三井銀行(後のさくら銀)の大阪支店だったからだが、合併時には住友銀の高麗橋支店を吸収した。「対等の精神」で合併した両行は、互いの伝統を尊重しつつ店舗再編に腐心したようだ。

インターネットバンキングの利用が増え、最近は店舗に行く機会は減ったが、その背景に目をこらすと金融再編の歴史が垣間見える。日本経済を支えてきたバンカーたちの姿を思った。(堀越正喜)

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOHC16AFO0W1A210C2000000/