【尼崎の風景】東墓地(杭瀬東墓地/残念さんの墓)

以前、尼崎の西難波霊園を訪れた時、Web版尼崎地域史事典『apedia』の「火葬場」の項目を読みました。

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火葬場 かそうじょう 出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

近世尼崎町の墓地は、町の東西の入り口に位置した西墓(竹谷新田字東浜新田)・東墓(杭瀬字松ヶ下)と初島墓の3か所であった。町なかの西墓・東墓火葬場が衛生上問題視されたことなどから、1913年(大正2)3月尼崎士族団が尼崎葬儀(株)を創設し、西難波字下小フケ(現西難波町2丁目)に火葬場を新設して同年10月27日から稼働させた。1925年には市が同地に西難波墓地を新設して西墓を移転した。一方東墓は、大日本紡績の土地買収・工場増築のため1916年に杭瀬字見立新田(現杭瀬南新町4丁目)の現在地に移転した。同地にある残念さんの墓も、このとき東墓とともに移転した。1950年には弥生ヶ丘斎場が設置されるが、西難波墓地の火葬場も1970年6月まで存続した。

執筆者: 地域研究史料館

参考文献
富田重義・前川佐雄『尼崎市現勢史』 1916 土井源友堂
『尼崎志』第1篇 1930 尼崎市

http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php?key=%E7%81%AB%E8%91%AC%E5%A0%B4

西難波の墓地、江戸期の墓碑が多数あったので、もともと当地に墓地があって、そこに近世の「西墓」がさらに移転して規模を拡大したものと思い込んでいましたけど、よく読むと「1925年には市が同地に西難波墓地を新設して西墓を移転した」とありますね。もしまったくの新設だとすれば、あそこの墓地は江戸期のものを含めて「since 1925」なわけです*1

そう思い至って、もう一つの近世墓地「東墓」の記述を読むと、これも大日本紡績の工場増築にともなって墓地丸ごとの移転になったということが書いてあります。有名な「残念さんの墓」も、この時に場所替えをしてるんですね。こちらは「since 1916」です。

www2.city.amagasaki.hyogo.jp
www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp
japanmystery.com
crd.ndl.go.jp

ここまで見たうえで、尼崎の「東墓」の現在を見に現地へ。最寄り駅は阪神大物駅。尼崎だいもつ病院と大物公園を回り込んで、徒歩10分もかからないくらいの距離です。

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最寄りは大物駅ですが、ここは杭瀬、かつての小田村のエリアです。ここ、いろいろ検索してみると、サイトによって「東墓地」と呼ばれたり「杭瀬東墓地」と呼ばれたり「尼崎杭瀬墓地」と呼ばれたりしています。それはおそらく、入り口に墓地の名称を掲げた看板なり表札なりが見当たらないせいでしょう。

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www.amaken.jp

杭瀬 くいせ 出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

小田地区の大字。市域南東部、左門殿川の西岸に位置する。辰巳町にかけて鎌倉~江戸時代の辰巳橋遺跡がある。史料上の初見は1099年(承徳3)「治部卿藤原通俊所領処分状案」(壬生家文書/『尼崎市史』第4巻)で杭瀬島とある。神崎川の河口にあった河尻の砂州から発達し、戦国時代まで続いた港のひとつで、地名も島であった当時の様子に由来するのであろう。平安末期以降は杭瀬荘として堀河流藤原氏の所領となった。鎌倉時代に入ると入江を隔てて杭瀬と長洲が地つづきとなり、東大寺領長洲荘や浄土寺領橘御園が杭瀬荘の領有権を主張、東大寺との争論は南北朝時代まで続いた。また『摂津志』によれば富島荘の荘域でもあった。

近世には1615年(元和元)池田重利の領地となり、1617年(元和3)尼崎藩領となった。村高は「慶長十年摂津国絵図」に860石、「元禄郷帳」に861石、「天保郷帳」に875.962石とある。また、天和・貞享年間(1681~1688)「尼崎領内高・家数・人数・船数等覚」(『地域史研究』第10巻第3号)には家数72軒、人数435人、1788年「天明八年御巡見様御通行御用之留帳」(『地域史研究』第1巻第2号・第3号)には53軒、236人とある。氏神熊野神社(近世には熊野新宮権現社)。近世にはほかに春日大明神社・八幡宮があった。寺院は浄土真宗本願寺派西光寺。

1889年(明治22)以降は小田村、1936年(昭和11)以降は尼崎市の大字となった。1905年(明治38)には阪神電鉄杭瀬駅および大物停車場(大物村との境界上)が開設された。1955~1958年の土地区画整理と1985年の住居表示により杭瀬北新町・杭瀬本町・杭瀬寺島・杭瀬南新町となったほか、一部が常光寺・梶ヶ島・東大物町・大物町・長洲本通となった。

執筆者: 地域研究史料館

http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php?key=%E6%9D%AD%E7%80%AC

「残念さんの墓」は入り口を一歩入ってすぐ左手にあります。

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墓地内には明治だけでなく江戸期のお墓も目に付きますが、区画が綺麗に整理されていて近代的です。1916年に全面移転してきたという経緯を踏まえれば、それも納得できる話です。

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「お墓のお墓」を見ても、移転前の時期の墓碑の比率が比較的高い気がします。もう100年近く前のことですが、本当にそっくりそのまま、丸ごとの移転だったのかもしれません。

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*1:そうではない可能性もありますが、そのへんは現時点ではわかりません。