【尼崎の風景】西難波霊園

以前、尼崎の弥生ケ丘墓園を訪れたことがあります。ここは、斎場も併設する尼崎市最大の公営墓地です。

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ただ、尼崎市にはこれ以外にも市営・公営とされる墓地が数多く点在しています。今回はその一つ、西難波霊園を見てみます。

西難波町にある西難波霊園。JRの立花駅阪神尼崎センタープール前駅のちょうど中間あたりにあります。

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他でも同様だと思いますが、尼崎市域には近世以前から多くの村落が点在していたわけで、この西難波もその一つだと言えます。

西難波 にしなにわ 出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

旧立花村の大字。市域中央部やや南西に位置する。難波が戦国時代に東と西に分離したと考えられる。史料上の初見は「細川両家記」天文5年(1536)3月26日条(『尼崎市史』第4巻)。仁徳天皇にまつわる難波の梅の伝説が伝えられている。

近世初頭には幕府領、1617年(元和3)尼崎藩領となった。村高は「慶長十年摂津国絵図」に833.8石。「元禄郷帳」833.794石、「天保郷帳」に890.489石とある。また、天和・貞享年間(1681~1688)「尼崎領内・家数・人数・船数等覚」(『地域史研究』第10巻第3号)には家数70軒、人数506人、1788年「天明八年御巡見様御通行御用之留帳」(『地域史研究』第1巻第2号・第3号)には67軒、309人とある。水堂井組に属した。氏神熊野神社(近世には熊野権現社)。ほかに八幡小社などがあったが1915年(大正4)熊野神社に合祀された。寺院は浄土宗光明寺。ほかに近世には真言宗大覚寺末明覚寺があったが廃寺となった。

1889年(明治22)以降は立花村、1916年(大正5)立花村から東難波とともに分離して尼崎市に合併し、以降は尼崎市の大字となった。1966・1967年の住居表示により西難波町となったほか、一部が東七松町・七松町・南七松町・昭和通・昭和南通・神田北通・神田中通・神田南通・北竹谷町竹谷町・南竹谷町・宮内町・西本町・蓬川〔よもがわ〕荘園となった。

執筆者: 地域研究史料館

http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php?key=%E8%A5%BF%E9%9B%A3%E6%B3%A2

この西難波にある西難波霊園は市営で、尼崎町の「西墓」を移転新設したものだと言われていますが、おそらく尼崎市への編入以前からあった墓地の拡充と公営化であると考えられます。これは、パターンとしては弥生ケ丘墓園と同様です。

実際、見ればすぐにわかりますが、明治・大正はもちろん、それ以前の近世の墓地が数多く立ち並んでいるのが目を惹きます。

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そうした前提があって、大正期にここに火葬場が新設されたのでしょう。火葬場は大正から昭和にかけて稼働していたといいます。

火葬場 かそうじょう 出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

近世尼崎町の墓地は、町の東西の入り口に位置した西墓(竹谷新田字東浜新田)・東墓(杭瀬字松ヶ下)と初島墓の3か所であった。町なかの西墓・東墓火葬場が衛生上問題視されたことなどから、1913年(大正2)3月尼崎士族団が尼崎葬儀(株)を創設し、西難波字下小フケ(現西難波町2丁目)に火葬場を新設して同年10月27日から稼働させた。1925年には市が同地に西難波墓地を新設して西墓を移転した。一方東墓は、大日本紡績の土地買収・工場増築のため1916年に杭瀬字見立新田(現杭瀬南新町4丁目)の現在地に移転した。同地にある残念さんの墓も、このとき東墓とともに移転した。1950年には弥生ヶ丘斎場が設置されるが、西難波墓地の火葬場も1970年6月まで存続した。

執筆者: 地域研究史料館

参考文献
富田重義・前川佐雄『尼崎市現勢史』 1916 土井源友堂
『尼崎志』第1篇 1930 尼崎市

http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php?key=%E7%81%AB%E8%91%AC%E5%A0%B4

妙光寺 みょうこう 出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

かつて旧尼崎町の宮町字妙光寺町(現開明町2丁目)にあり、1945年(昭和20)の空襲で焼失ののち難波〔なにわ〕本町8丁目(現西難波町3丁目)に移転、さらに西難波町2丁目の現在地に移転した浄土真宗本願寺派の寺院。山号は白雲山。『尼崎志』は、元来は唐招提寺末の真言宗寺院で開基不詳、1339年(暦応2)浄土真宗に改宗した妙託を中興開基としている。また同書は、改宗する以前の故地は難波で寺名は妙光院ではないかと推定している。なお、同寺に隣接する西難波墓地は1925年(大正14)に市が西墓を移転して新設したもので、1913年に尼崎士族団が設置した火葬場が1960年代後半ころまで存続していた。

執筆者: 地域研究史料館

http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php?key=%E5%A6%99%E5%85%89%E5%AF%BA

crd.ndl.go.jp

こうして見てくるとこの西難波墓地、近代以前からの西難波との地縁、編入合併後の近現代の尼崎との地縁を色濃く持つところであると言えます。そうした縁に連なる人にとっては、縁深い場所でしょう。ただ、比較的新しく移住してきた人も少なくない尼崎、そうした新住民にとってこうした墓地はどう見えるのか。

ちょっと考えてみたいと思います。

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