【尼崎の風景】弥生ケ丘墓園・その2:動物慰霊碑と善法寺村墓地

こちらの続きです。

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こうして墓園内の配置図を見ると、平坦で開けた場所に整然と墓域が並ぶ、現代的な墓地に見えます。が、実際にはそうでもないことも、そこに見えています。

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ま、まずはとりあえず、動物慰霊碑を見に行きましょう。端っこの方にあるので、墓園の中を突っ切ることになります。

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で、この慰霊碑に近いところに、これがあります。

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弥生ヶ丘墓園の中でもさらに塀で区切られた一区画。「善法寺村墓地」と称されています。「善法寺」はこの墓地一帯の地名です。

善法寺 ぜんぽうじ 出典: Web版尼崎地域史事典『apedia』

小田地区の大字。1228年(安貞2)「将軍藤原頼経袖判下文」(尊経閣所蔵武家手鑑/鎌倉遺文)中の源時光に地頭職が宛行〔あてが〕われた摂津国善法寺を比定する説や、1482年(文明14)ころの「摂津国寺社本所領并奉行方知行等注文」(蜷川家文書/大日本古文書)に記される夢窓国師創建の寺院善法寺が地名の由来であるとする説がある。史料上の初見は1594年(文禄3)「善法寺村検地帳」(太田善夫氏文書)。『摂津志』によれば中世には椋橋西荘の荘域であった。

村の大部は近世を通じて領主がめまぐるしく交替し、幕府領もしくは主として大坂城代領・京都所司代領、小部は天正年間(1573~1592)から旗本平野氏(長重系)知行所であった。村高は「慶長十年摂津国絵図」に224.244石、「元禄郷帳」「天保郷帳」に224,24石とある。西明寺井組に属した。氏神は白井神社、寺院は浄土真宗本願寺派円融寺。

1889年(明治22)以降は小田村、1936年(昭和11)以降は尼崎市の大字となった。1981年住居表示で善法寺町となり、一部が弥生ヶ丘町となった。

執筆者: 地域研究史料館

http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php?key=%E5%96%84%E6%B3%95%E5%AF%BA

www.ama-jinja.org

つまり、もともとここは、善法寺村の墓地があった場所で、後に尼崎市がその周囲の土地を併せて市立墓地として整備し、現在の弥生ケ丘墓園が形成されたという流れになるかと思われます。

尼崎市のサイトを確認してみれば、弥生ケ丘墓園の着工は1955(昭和30)年。戦中戦後の合併を経て面積を拡大した*1尼崎市が、将来の人口急増が見込んで設置した墓園であると言えるでしょう。

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この点を確認したうえで、改めて墓園の配置図を見返してみれば、善法寺村墓地は墓園内の「区画外の区画」として仕切られていることが確認できます。

そういう前提知識をもってこの墓地を見ると、またいろんなものが見えてくるのですが、それについてはまた改めて。

*1:善法寺が属した川辺郡小田村は、1936(昭和11)年に尼崎市と合併しています。→ 兵庫県川辺郡小田村 (28B0140004) | 歴史的行政区域データセットβ版小田村・尼崎市合併問題 - apedia