映画「はちどり(벌새)」を観る。
少し前のことになりますが、評判の高かったこの作品、京都みなみ会館で観てきました。
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いい映画でした。いい映画でしたが、これ、途中で観るのが辛くなりました。
この作品が描いている辛さに、自分が同期してしまうんですよね。
最初に母親と、その兄である伯父の話が出てきて、両親の生きた時代が回顧的に示唆されます。
兄と姉と妹が、出てきます。暴言や暴力や揉め事やその他理不尽なことはあるにしても、また学校の成績はそれぞれであるにしても、両親は分け隔てなく、みんなが勉強して進学して(自分たちよりも)立派になって身を立てることを望んでいます。そのために、身を粉にして働いています。
兄弟の誰かが、誰かのために進学を諦めなければならなかった時代は過去のものです。女の子が女の子であるが故に勉強から遠ざけられた時代も過去のものです*1。
両親はちゃんと働いています。ちゃんとした家もあります。兄妹揃って学校にも塾にも行けます。ソウル大を目指すのも自由です。友達だっていないわけではありません。ままごとレベルであっても彼氏もいます(いました)。
もっと辛い時代、もっと辛い境遇に生きる人々は、世の中には山といます。少なくともウニは、通学路の脇で「決死反対」の横断幕を掲げて抵抗する人たちを他人として眺められるところにいます。
でも、辛いものは辛いんですよ。傍から見れば「十分やん」「文句ないやん」「何が不満やねん」と言われるようなところでも、辛いんですよ。
この作品を観てて辛いのは、ウニだけではなく、お姉さんもお兄さんも、お父さんもお母さんも、友達や後輩やなんちゃって彼氏も、そしてヨンジ先生も、みんなそんな辛さを抱えている、その意味で「逃げ場のない世界」だからなんですよ。その辛さを抱えながら、同居して付き合ってぶつかって触れ合って。
その繊細な割れ物注意な関係を、他人事として見てられるほど、私はそれらと無関係ではなかった。
ウニが心を通わせたヨンジ先生も、ソウル大に入った後にかなりまとまった期間休学していることが示唆されていました。そこに何があったのか。断片的な会話が示唆する彼女の人生の空白(個人的な事情は別として、時代的な想像はできなくもない)はたぶん、簡単に言葉になるようなことではなかったのではないか。
彼女が遺していったのは、言葉以外の何か。ベタですけど、エンディングを私はそんな風に眺めていました。
まあ、この先、特に希望があるわけではないけど、生きていれば何かあるかもしれないし、どこかにつながっていくかもしれない。辛いししんどいけど、そうやって生きてきた人と、これから生きていく人との間での人生の受け渡しが、あそこには描かれていたのかもしれませんね。