移設されて残っていた奉安殿

長崎県北松浦郡小値賀町というと、五島列島の北の方なんですが、そこで戦前戦中の奉安殿が現存しているのが確認された、というニュース。設置・移設の経緯や戦後の遺され方も含めて興味深いケースだと思います。関係者の理解を得て、調査と保存が進むといいですね。

小値賀「奉安殿」 住民が移設し保存 「壊すの忍びなかったのでは」
2020/7/27 11:15 (JST)7/27 11:44 (JST)updated
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移設作業の様子を撮影したとみられる写真(前田百合子さん提供)

 北松小値賀町で「奉安殿」とみられる建造物が現存していることが分かった。戦後間もない時期に、当時の設置場所から移設して保存したとみられる。

 元町文化財調査委員会委員長の吉元俊二郎さんは「島民は壊すのが忍びなかったのではないか。それまで天皇を崇拝していたのに、(敗戦したからといって)簡単には切り替えられなかったのだろう」と推測している。

奉安殿 とは
2020/7/20 11:15 (JST)7/27 12:14 (JST)updated
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 戦前の日本で、天皇と皇后の写真(御真影)や、当時の教育理念である教育勅語を安置するため、学校などに設けられた建物。1910年代から全国で建設が始まった。戦後は連合国軍総司令部GHQ)の廃止方針を受け、日本政府は46年、学校からの全面撤去を指示。多くは解体されたが、移設により解体を免れた例も少なくない。

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 建造物は現在、私有地内にあり、普段は立ち入りできない。この土地の所有者で「丸ま旅館」(笛吹郷)のおかみ、前田百合子さん(66)は「嫁いできた約40年前、亡くなった夫から『料亭(平和荘)の経営者だった祖父が移設した』と聞いたことがある。関心がある人がいれば、私の方で案内したい」と語った。

 前田さんの夫の祖父が残した写真には、大人が数十人がかりで白っぽい大きな建造物を運んでいる様子を撮影したものが複数ある。その中の1枚には「昭和弐十一年 小値賀校奉安殿ヲ平和園ヘ移ス」と説明文が書かれており、移設作業には多くの地元住民が関わったとみられる。

 戦前の天皇は神格化され、学校の生徒は奉安殿の前を通る際には服装を正し、最敬礼するように定められていた。笛吹郷の山口安美さん(91)は当時を振り返り「(奉安殿は)鉄の柵で囲ってあり、触れられなかった」。前方郷の崎山信好さん(83)は「登校すると最敬礼していた。当時は中に何が入っているか知らなかったし(天皇は)神様と同じと思っていたので、あまり近づかなかった」と話した。

 町教委の文化財担当者は、戦前の天皇制下の様子を伝える戦争遺跡や、近代の小値賀におけるコンクリート製建築物としての価値を評価。「今後も所有者の理解を得ながら、保存に向け調査を続けたい」としている。

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戦後に撤去されたはずの「奉安殿」 長崎・小値賀町で現存か
2020/7/27 12:00 (JST)7/27 12:13 (JST)updated
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雑木林の中にある「奉安殿」とみられる建造物。正面の上部に見える円形の部分には菊の御紋が取り付けてあったとみられる=小値賀町中村郷

 北松小値賀町教委は、同町中村郷の雑木林にあるコンクリート製建造物について、戦前の学校で天皇の「御真影」などを安置していた「奉安殿」である可能性が高いとして調査を進めている。

 当時を知る住民の証言などから、町教委は「奉安殿とみて間違いないのではないか」と分析。「近代史を知るための貴重な史料になる」としている。

 奉安殿の多くは戦後、連合国軍総司令部GHQ)の指令で学校から撤去、解体された。県内で現存が確認されているものには、米海軍佐世保基地司令部として使われている旧日本軍の庁舎脇にある日本庭園の奉安殿がある。県外では文化財に指定されている例もある。

 小値賀で見つかった建造物は高さ約2.7メートル、横幅約2.1メートル、奥行き約2メートル。壁の一部にはひびが入り、正面の金属製の開き扉はさびついて開かないという。

 元々は、現在の町立小値賀小グラウンドの一角に設置されていたとみられている。小値賀尋常高等小学校(後に小値賀町国民学校)があった場所で、雑木林とは約230メートル離れている。

 町教委は6月中旬、元町文化財調査委員会委員長の吉元俊二郎さん(73)=同町笛吹郷=から情報提供を受けて調査に着手。80代から90代の地元住民数人に雑木林の建造物の写真を見せ、かつて通った尋常高等小学校にあった建物と同じだとの証言を得た。建築年は1928年から37年の間と推測している。

 雑木林は、80年ごろまで営業していた料亭「平和荘」の敷地内にある。建造物は「平和神社」の社殿として使われたとみられている。

 戦時下の教育に詳しい日大文理学部の小野雅章教授(教育史)は小値賀の建造物について「奉安殿は多くの場合、神社様式で建てられたが、(写真を見ると)そうではなく特徴的。保存状態もよいようだ」と指摘。「戦争を経験していない世代が国を動かしている今の時代に、こうした施設を保存していくことは戦争の悲惨さを伝えるため重要」と意義を説明した。

https://this.kiji.is/660306994502419553?c=174761113988793844

御真影と学校: 「奉護」の変容

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