26回目の「1.17」

26年、26年ですか。長いようでも、まだ記憶は生々しい。そんな年月です。

あの時、経験したこと、見たこと、聞いたこと。覚えてる者が覚えていて、残せる形で残しておかねばと思います。

2021/1/17 05:47神戸新聞NEXT
発生時刻の朝「5時46分」 阪神・淡路大震災26年

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紙や竹の灯籠の光で浮かび上がった「がんばろう」「1.17」のメッセージ=17日午前5時42分、神戸市中央区加納町6、東遊園地(撮影・辰巳直之)

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地震発生時刻に合わせて祈りを捧げる人たち=17日午前5時46分、神戸市中央区加納町6、東遊園地(撮影・秋山亮太)

 1995年1月17日に起きた阪神・淡路大震災から、17日で丸26年を迎えた。発生時刻の午前5時46分に合わせ、神戸市中央区の東遊園地など各地で追悼行事があった。新型コロナウイルス禍の中でも「この日だけは」と多くの人が手を合わせ、震災で亡くした家族や友人らを思い起こした。

 前日から紙製の灯籠でかたどられた「がんばろう」の文字が点灯され、分散来場が呼び掛けられた東遊園地。その中に、震災で母親の藤井あい子さん=当時(83)=を亡くした神戸市東灘区の寺内和子さん(72)の姿があった。

 あい子さんは全壊した自宅の下敷きになった。震災の日が近づくと当時がよみがえる。自身もけがをしながら実家に駆け付けたこと、がれきから出てきた足が温かかったこと、掘り出されたあい子さんは「あ、あ」と懸命に何かを伝えようとしたこと、自らくぎを打ち棺おけを作ったこと…。

 和子さんは「お母さんの代わりに誰かのためになれば、自分が救われるかもしれない」と介護ヘルパーの仕事を続けている。新型コロナの影響で離職者が増え、夜から翌朝までの勤務にも入るようになったが、「この仕事は辞めたくない」。

https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202101/0014011521.shtml

2021/1/17 18:49神戸新聞NEXT
西宮震災記念碑公園で多くの遺族が祈り「人の波は分散も、人出は例年以上」

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犠牲者の名前が刻まれた碑の前で手を合わせる人=17日午前6時45分、西宮市奥畑、西宮震災記念碑公園(撮影・中西幸大)

 兵庫県西宮市奥畑の西宮震災記念碑公園では、同市内の犠牲者1086人の名前が刻まれた石碑を前に、多くの遺族らが静かに祈りをささげた。

 夜になっても訪れる人の姿は途切れることなく、市の担当者は「人の波は分散しているものの、人出は例年以上。新型コロナウイルスの影響で遠出をせずに、地元で震災を見つめ直す人が多かったのでは」。

 父親=当時(60)=を亡くした西宮市の会社員男性(50)は「よく遊んでくれる優しい父だった。2人の子どもに語り継いでいきたい」と話した。(前川茂之)

https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202101/0014012758.shtml

生きた証しを残したいのに…無名の慰霊碑、刻めぬ犠牲
阪神・淡路大震災 千種辰弥
2021年1月16日 16時00分

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慰霊碑の建立を呼びかけた大町眞由美さん(右)と山田美代子さん。碑に犠牲者の名前は刻まれていない=2021年1月14日午後、神戸市東灘区、矢木隆晴撮影

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神戸市東灘区本山中町4丁目の犠牲者を悼む慰霊碑。犠牲者の名前は刻まれていない=2021年1月14日午後、神戸市東灘区、矢木隆晴撮影

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大町眞由美さんの店舗兼住宅は1階が潰れ、全壊した=1995年、神戸市東灘区本山中町4丁目、大町さん提供

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大町眞由美さんの自宅(右)は1階が潰れ、全壊した=1995年、神戸市東灘区本山中町4丁目、大町さん提供

 阪神・淡路大震災で建物の7割近くが全壊し、多数の犠牲者が出た神戸市東灘区本山中町4丁目に小さな慰霊碑がある。建てられたのは2年前だが、個人情報への配慮から名前は刻まれていない。震災から17日で26年。そこで暮らした人たちの生きた証しや、地域の被災の歴史をどう伝えるのかが問われている。

 本山中町4丁目はJR摂津本山駅の南側にあり、神戸線の線路と国道2号に挟まれた約300メートル四方の地域だ。震災前は市場があり、戸建て住宅と長屋が混在する下町の風情が残る街だったが、468棟の建物の約67%にあたる312棟が全壊し、壊滅的な被害を受けた。

 震災後、自治会のある本山中町1~3丁目は、役員らが遺族を回って同意を取り付け、近くの中野北公園に犠牲者75人の名前を刻んだ慰霊碑を建立した。自治会のない4丁目では、そういった動きが起きず、碑ができなかったという。

「名前ないのはかわいそう」 市に問い合わせたが…

 一昨年の震災の日、4丁目で薬局を営む大町眞由美さん(73)が公園でラジオ体操を終え、碑に手を合わせて帰ろうとしたところ、知人から「4丁目の人の名前がないのはかわいそうだ」と言われた。

 同じことを感じていた大町さんは、山田美代子さん(77)ら、4丁目にある国道地蔵尊の世話をする奉賛会のメンバーに相談。お地蔵さんの隣に慰霊碑を建てることを決めた。

 しかし、4丁目で誰が亡くなったのかは、近所で聞いて回っても一部しか分からない。市に問い合わせたが、「名前は教えられない」と言われ、伝えられたのは「23人」という数だけだった。

 「平成に起きた災害だから平成のうちに」と考え、令和に年号が代わる直前の一昨年4月に高さ50センチほどの小さな慰霊碑を建立。犠牲者の名前は刻まず、人数だけを彫り込んだ。

 大町さんと山田さんは、さらに詳しく調べようと図書館に行ったところ、司書から1冊の本を渡された。そこには犠牲者名や住所が記されており、4丁目では37人の名前があった。

 「多いと思っていたけど、こんなにたくさん」。驚くとともに被害の全体像をつかむ難しさも感じた。

 慰霊碑の人数を彫り直した後も、震災関連死した人を含む5人の名前が新たに判明。昨年の震災の日は、42人の名前を書いた紙を慰霊碑の後ろに置き、初めて追悼の集いをした。

 集いには、下宿が崩れ大学生の息子を亡くした母親が来た。「ここに慰霊碑がなかったのがずっとつらかった」と言い、感謝した。祖父母を亡くした男性は「今度、結婚するから」と婚約者を連れて、報告に訪れた。

 大町さんは言う。「地域を離れている人や普段付き合いのない人も来て、地域のつながりを取り戻すきっかけにもなった」

 今年も慰霊碑の前でテントを張り、17日の明け方から追悼の集いを開く。42人の犠牲者の名簿を用意し、訪れた遺族に名前を刻んでいいかどうか、尋ねるつもりだ。

 「街の風景はすっかり変わってしまった。碑の前に集まって話をしながら、『あの時はこうだった』と伝えていけたら」(千種辰弥)

https://digital.asahi.com/articles/ASP1H524CP1HPTIL011.html

くこちゃんも、もう26歳やねえ。どんな娘さんになってるんやろか。

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