南原の金朱烈

その後、任実から市外バスでさらに南下し、南原で一泊することにしていたのだが。
南原の交通拠点といえば、市外バスターミナル・高速バスターミナルに南原駅となる。このうち市外バスターミナル周辺には、さすがにちょっと躊躇せずにはおれないような旅人宿しか見当たらないし、郊外に移転した南原駅周辺には本当に何もない。宿を探すなら市街地の北方にある高速バスターミナル周辺がいちばんよいと思われる。モーテルも多いし、いちおう普通のホテルもある。



さて、南原と言えば、誰もがまず思い浮かべるのは「春香伝」であろう。その舞台となった広寒楼は間違いなく南原観光の中心である。ただ、南原に来たのはそれが目的ではない。
市外バスターミナルからタクシーに乗って向かったのは、こちらである。

김주열(金朱烈)。1960年、馬山商業高校の学生であった彼が凄惨な変死体で発見されたことが馬山市民・学生の憤激を招き、その後の4.19へとつながっていったことは、よく知られている。

彼の墓地はもちろん国立民主墓地にもあるのだが、故郷である全羅北道南原市のこの地にも1994年、彼の墓地が作られたのである*1。タクシーの運転手さんの話では、金朱烈の名前はもちろん、この墓地も市民にはよく知られているという。

市外バスターミナルの観光案内図にも、김주열묘(金朱烈墓)はこのようにちゃんと書き込まれている。

また、墳墓の脇にはこのように追慕閣・記念館という名の小さな建物があるのだが、残念ながら常時開放されているわけではなく、中を見るためには事前に南原市庁か面事務所に連絡しておく必要がある。もっとも、中に入らずとも入り口のガラス扉越しに展示内容はだいたい見える。






韓国現代史の中に何人も数えることができる「烈士」の一人としての彼の存在は、ソウルからは遠く離れたところで、慶尚南道の馬山と全羅北道の南原とをつなぐものとなっている。


追記:こちらの論考は、当時と現代との「間」を考えるのに、参考になります。

【論壇と現場】1960年の馬山と1980年の光州 : 分断と地域対決の下での民主抗争と韓国政治を振り返りながら - 季刊『創作と批評』日本語版

*1:この時期については、金泳三による4.19墓地聖域化の影響も考えられるし、1944年生まれの金朱烈であるから、その生後50年を期したとも考えられよう。