群山の旧日本人街観光事業化をめぐって

群山の旧日本人街をめぐるこの記事。

2010/01/12 21:39 KST
群山の旧日本人街を観光スポットに、市が事業本格化

【群山12日聯合ニュース韓日併合100年を迎えることし、日帝強制占領時代に全羅北道群山市に造成された日本家屋や日本人が所有していた建物が、観光商品として復活する。
 群山市は昨年から、「近代文化遺産ベルト化事業」の開発を模索してきた。ことし4月のセマングム防潮堤全面開通で国内外観光客が多数訪れるものと期待されることから、日帝時代の近代文化を再建し、一帯を見どころやグルメスポットの豊富な異色の観光スポットに育てようというものだ。

 市はまず、当時日本人が日本家屋を建て居住していた月明洞、永和洞を「近代歴史景観」に指定し、これを再構成する作業をことし本格化する計画だ。一帯には日本家屋100棟が密集しており、これらを歩きながら鑑賞できる探訪路、景観路を造成する。

 蔵米洞内港一帯の旧朝鮮銀行群山支店、旧長崎十八銀行群山支店や商社倉庫などは、各種公演場、カフェテリア、ギャラリー、近代基礎科学体験館など、芸術創作ベルトとして造成する予定だ。1899年5月に開港した群山内港は、日帝時代、湖南平野で生産されたコメの日本搬出に利用されていた。1910年当時、群山住民の半数に当たる8000人余りが日本人で、至るところに日本風の建物が建設された。


朝鮮銀行群山支店=12日、群山(聯合ニュース

http://japanese.yonhapnews.co.kr/Locality/2010/01/12/3000000000AJP20100112003900882.HTML

何となく気になっていた理由は、行ったことはないのに、この地名を何度か目にしたことがあったからだった。

韓国の「昭和」を歩く (祥伝社新書)

韓国の「昭和」を歩く (祥伝社新書)

この本に、群山の日本人町について記述があったのを読んだことがある。


そして、この本の旅の跡を追った『韓国の「昭和」を歩く』(鄭銀淑)を歩く 〜群山〜というブログ記事を読んで、もう一つのことを思い出した。

 ついでに、名作映画「八月のクリスマス」のロケ地を探したが、若者から老人まで誰に聞いてもわからなかった。その無関心ぶりがどことなくおかしかった。

http://mihiryo.exblog.jp/1252454/

そうだった。「八月のクリスマス」のロケ地がここだったのである。

八月のクリスマス [DVD]

八月のクリスマス [DVD]

残念ながらここのロケ地は、撮影当時とはぜんぜん姿を変えているようだ。

映画の舞台【八月のクリスマス】―韓国・郡山(クンサン)を散策

ちなみに、上の記事を書いている「ばつ丸」さんのサイトはこちら。関心のある人には興味深いデータが満載で、考えてみれば私もここ、しばしば覗いて見ているのだった。

ばつ丸の「ロケ地を旅する」

せっかく整備するのなら、「八月のクリスマス」のロケ地も復活整備してしたらどうだろうか。日本人観光客にはけっこうアピールすると思うのだけど。

ちなみに、この旧日本人街はしばしば議論の種になっていたようで、こんな記事も1年ほど前には出ていた。

群山日本式家屋「保存するか開発するか」

保存、特化を推進する市「日本から観光客が訪れ始めたのに…」


建築されてから70年〜100年が経つ日本式家屋が並び、日本植民地時代の面影を今に残す群山(クンサン)内港周辺の新興洞の町(上の写真)。蔵米洞には1908年に建てられた旧軍山税関(下左)と、1923年に設立された旧朝鮮銀行群山支店(右下)がある。赤いレンガの建物の旧軍山税関の姿は比較的よく保存されているが、朝鮮銀行は約10年前の火災発生後は放置されてきた状態だ。(写真=フリーカメラマン、オ・ジョンチャン氏)

14日、全羅北道群山市(チョンラプクト・クンサンシ)の内港周辺にある新興洞(シンフンドン)のとある路地。2階建ての木造住宅に石灰を塗った日本式の小ぎれいな高級住宅が目に入ってきた。黒くコールタールが塗られた木板と屋根の下の二つの軒でできた家屋で、日帝時代、反物商だった広津家の住居だ。1925年に建てられたこの家は「近世の日本の伝統的な武家様式の原形が本土のそれよりよく残っている」と日本建築家たちに評価されるほど、よく保存されている。

旧広津家の周辺には日本式の家々があちこちで目につく。ひとつ屋根の下に3〜5世帯が連立住宅の形態でつながっており、庶民が住んでいた「長屋」の風景を垣間見ることができる。江戸時代の建築様式で勾配屋根が特徴の寺院、東国寺もある。

群山市新興洞、蔵米洞(チャンミドン)、永和洞(ヨンファドン)一帯には日本式家屋、いわゆる「敵産家屋」がまだ170件ほど残っている。ハングルの表札や看板さえなければタイムマシンに乗り、日帝時代の町を歩いているのではないかと錯覚するほどだ。

群山市は1900年代の初めから45年の間に建てられたこれらの家屋の観光資源化事業を推進している。原形がよく保存されている日本式家屋と日帝時代に使用された銀行や税関など近代建築物を見学できる探訪コースを作るという計画だ。韓国人はもちろん、日本や中国など外国人のための観光名所になると見込んだためだ。

このために道のあちこちに茶道を再現する喫茶店や刺身屋、商店を開き、日本風に特化する計画だ。大部分が個人所有の日本式家屋は原形保存のために外形維持を条件に改補修費用として1000万ウォンを上限に支援している。

しかし一部の住民は「日帝の名残の芽を全て摘み取って、新しい建物を建てなければならない」として開発を主張する。住民のキム某さん(67)は「ここは日本が韓半島のコメを搾取していった収奪の町。現在は、高齢者だけがこの場所に残っている」とし「早く撤去して補償金をもらいたい」と話す。

実際に日本も関心を表している。最近、日本の朝日新聞(1月8日付)は「支配の名残に揺れる 日本統治の遺構 開発と保存」という見出しで、群山の日本式家屋の実態について報道した。同紙は「日本家屋は『敵産家屋』と呼ばれる植民地支配の象徴だが、開発から漏れ、主に低所得者たちが住んだ。今、そんな長屋を保存しようという動きが活発化している」と伝えた。

日帝時代には日本人1万人が居住=群山は日帝時代に西海(ソヘ、黄海)中部地域の要所だった。群山港が湖南(ホナム、全羅道)平野で収穫されたコメを運送する主要な搬出港としての役割を果たしていたので、この地域には一時期日本人が1万人近く住んでいたほど繁栄していた街だった。日本式家屋が多い理由だ。

蔵米洞、月明洞(ウォルミョンドン)などの内港周辺には日本式家屋以外にも独特の建築様式で建てられた旧官公署も多い。赤いレンガで建てられた旧軍山税関は建築後、100年の歳月が流れたが、昔の姿をそのまま残している。ソウルの韓国銀行本店のような建築様式でベルギー産のレンガを輸入し、建築したという。

内港のすぐ目の前には1980平方メートルの広さの旧朝鮮銀行建物が立っている。昨年、文化財庁が文化財登録を予告したこの建物は個人に譲渡された後、高級酒場として使用されたが、今から10年ほど前に火災が起きてからは放置されてきた。このような独特な街の風景ゆえに日帝時代を背景にした映画『将軍の息子』や『風のファイター』の舞台にもなった。

これらの日帝時代の建築物は韓国独立後、開発ブームから取り残されることが多く、それがむしろ保存に一役買ったことになる。しかし10〜20年前から群山市内の中心市街地が羅雲洞(ナウンドン)、米龍洞(ミリョンドン)地域へと移転し、この街がスラム化、日本式家屋は老朽化している。

円光(ウォングァン)大学の李庚贊(イ・ギョンチャン、都市工学)教授は「歴史的保存価値が高い群山地域の近代建築物がこれ以上失われないように、保存への支援を急ぐべきだ」と指摘する。

また文東信(ムン・ドンシン)群山市長は「青少年に民族精神を学習させる体験現場であり、立派な観光資源として整備する」と話している。

◆敵産家屋=敵産の本来の意味は「自国の領土や占領地内にある敵国の財産、または敵国人の財産」をいう。韓国では解放後、日本人が退いた後に残された家や建物を示す。解放後その多くは一般人に払い下げられた。

http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=94905&servcode=A00§code=A00

全羅道はいま大雪でたいへんなはずので、もう少し時機を見てから行ってみようかなと思っている。