上海ユダヤ難民資料の記憶遺産申請

上海のユダヤ難民記念館には私も行ったことがありますから、産経新聞が伝えている動きには興味があります。

【上海の風景】提籃橋界隈を歩く・その2:上海ユダヤ難民記念館


ただ、この産経新聞の記事には、いまいちよくわからないところもあります。

もしかして産経新聞、「当時、上海の日本軍は、ユダヤ難民に対してイイコトをした」というロジックで、中国を相手にして国際舞台で「歴史戦」を仕掛けるつもりですか?いくらなんでもまさか、とは思いますが…。

2015.8.9 05:00更新
【歴史戦】中国、上海ユダヤ難民資料を記憶遺産申請へ 旧日本軍が保護の史実を隠蔽 「抗日戦勝70年」の一環に


「世界記憶遺産」として登録申請の準備を進めている中国上海市内の上海ユダヤ難民記念館(河崎真澄撮影)

 【上海=河崎真澄】戦前に欧州を追われ、上海に逃れてきた3万人近いユダヤ難民の資料を「世界記憶遺産」として国連教育科学文化機関(ユネスコ)に登録する申請作業が中国で進んでいることが8日、関係者の話で分かった。ユダヤ難民は旧日本軍が当時、上海北部の日本人居留区に「無国籍難民隔離区」を置いて保護した経緯があるが、中国側はこうした事情をほぼ封印し、「抗日戦争勝利70周年」の一環として、中国がユダヤ人保護に貢献したかのように国際社会にアピールする考えだ。

 今回の申請作業を進めているのは、戦時中は摩西会堂(ユダヤ教会)と呼ばれ、現在は上海市虹口区当局が管轄している「上海ユダヤ難民記念館」。記念館が集めた難民の名簿や遺留品、旧日本軍が管理した隔離区(通称・ユダヤ難民ゲットー)に関する資料、難民から聞き取った証言などをまとめ、中国政府とともに登録を働きかけている。

 申請作業と並行し、9月3日に北京で大規模な軍事パレードなど一連の抗日戦勝利70周年記念イベントを行うのに合わせ、記念館や「リトルウィーン」と呼ばれたユダヤ難民の住居やダンスホール、カフェなどが立ち並ぶ、当時としては自由を謳歌(おうか)したエリアの建築物改修を終える予定だ。

 戦前の上海では、アヘン戦争(1840〜42年)を経て英国などが設置した租界や、1937年の日中戦争の後にできた日本人居留区への上陸には必ずしも正式な書類は必要なかった。

 元駐リトアニア領事代理の杉原千畝(ちうね)氏が人道的な見地から発給し続けた「命のビザ」を手に、日本を経由して、当時は世界でも限られた難民受け入れ地だった上海に向かったユダヤ難民も少なくなかった。

 42年、ナチス・ドイツが日本に「最終解決」と称してユダヤ難民の殺戮(さつりく)を迫ったが、旧日本軍はこれを拒否。43年に「無国籍難民隔離区」を置き、許可なく域外に出られない制限を加えてナチス・ドイツに説明する一方、ユダヤ人の生命を守った歴史がある。

 日本がユダヤ難民を保護した理由として、上海社会科学院歴史研究センターの王健副所長は、「旧日本軍がユダヤ難民を当時の満州などに移住させて利用しようとした『河豚(ふぐ)計画』が背景にある」とみている。

 中国は昨年6月、「南京事件」と「慰安婦」を世界記憶遺産に登録申請し、日本政府が反発している。

http://www.sankei.com/world/news/150809/wor1508090004-n1.html
http://www.sankei.com/world/news/150809/wor1508090004-n2.html

これも、そうした動きに連動した動きなのかもしれません。

上海犹太难民纪念馆闭馆修缮 8月下旬将重新开放
2015年07月28日 09:53:20 来源:新华网


图为修缮中的上海犹太难民纪念馆。

新华网上海7月28日电 上海犹太难民纪念馆近日闭馆进行修缮维护。作为上海市纪念中国人民抗日战争暨世界反法西斯战争胜利70周年重要展馆之一,此次修缮时间紧、任务重,三个场馆同时开工。目前,总体修缮方案已经全部出炉,正在进行紧张施工与作业,8月下旬将重新开放。

据悉,修缮后的上海犹太难民纪念馆将筯添更多的上海元素,在2号、3号展厅将展出更多有关犹太人在上海避难的史料、文献及图片。纪念馆对面,在犹太人难民区中颇为知名的“白马咖啡馆”还将兴建2期工程。

二十世纪初至二十世纪三、四十年代,为了逃离反犹浪潮和纳粹的疯狂迫害,成千上万的犹太人逃亡上海避难。而上海犹太难民纪念馆是中国境内唯一一个能够反映二战时期犹太难民居住区生活的历史遗存。(实习生 刘洋 张潇 图文报道)


http://sh.xinhuanet.com/2015-07/28/c_134451858.htm

ところで、上で見た産経新聞の記事は、そう長くない紙幅にいろいろ盛り込もうとしているので、やや言葉足らずの面があります。そこでここでは、「上海のユダヤ難民」というテーマに絞って、併せ読む価値があると思われるものを、少し補足をしておくとしましょう。

ユダヤ難民の流入

1930年代、ナチドイツによる反ユダヤ主義が激化すると、多くのヨーロッパ、ドイツ系ユダヤ人が上海に避難所を求めて来た。多くの国々がユダヤ人の受け入れを拒否したが、中国の領土であって中国ではない上海は、彼らに査証もパスポートも求めなかった。1931年から1941年の間に、2万人のユダヤ人がこの町に避難民として流入した。

1940年、リトアニア領事・杉原千畝が、主にポーランド出身のユダヤ人2139家族、約6千人に、21日間の日本通過ビザを発給したことは、広く知られている。これらユダヤ人は、シベリア鉄道で中国東北部ウラジオストクを経て、日本へ到着した。しかし、許可された日本滞在間内に当初の渡航目的地、カリブ諸島のオランダ領キュラソーへ渡れず、大部分は止む無く上海にやってきた。

同じような話が、中国にもある。1人の勇敢な中国人何風山博士は、1938年から1940年までウイーンの中国領事であったが、数千人のユダヤ人に査証を発行し、ヨーロッパを離れて上海に安全な避難場所を見つけられるように計らった。

1941年日本軍は上海を占領した。中国人に対する残虐行為はあったものの、ユダヤ人に対して西洋人の様な偏見を持たない日本人は、全般的にユダヤ人に迫害を加えることはなかった。1930年代、欧州ではユダヤ人にたいする敵対感情が生まれ、“シオンの長老の議定書”にあるような反ユダヤ主義の宣伝パンフレットが出回ったが、日本人は余り影響を受けなかった。
(注:シオンの議定書:1918年ロシア革命に反対する白系ロシア軍のコサック兵の首領、グレゴリー・ミカイロヴィッチ・セミョーノフが全軍に配布した怪文書。ユダヤ人が世界制覇のための秘密計画を進めている。ロシア革命も彼らの計画の一部だとする反ユダヤ主義の文章。)

日本は1904年〜05年のロシア戦争の際、ユダヤ人銀行家に資金援助を仰いだ。そこで、むしろユダヤ人の巨大な財力と力を利用し、満州ユダヤ人を含めた共和国と建設しようとする動きまであった。

しかし1942年同盟国ドイツからナチ・ゲシュタポの日本代表、Josef Meisinger大佐が“Meisinger Plan”なる計画を持ってやってきた。それは崇明島に処刑所(death camps) を作り、上海のユダヤ人に“最終決着”を図ろうとするものであった。

幸いにも日本軍は、これには同意しなかった。しかし1943年、 Death Camps の代わりに虹口の共同租界の一部・提籃橋(日本人居住区の直ぐ東隣)に、国籍の無い“難民のための指定地区”を設定し、そこに多くのユダヤ人を押し込めた。(西は公平路、東は通北路、南は恵民路(旧Baikal Road)、北は周家嘴路(旧Point Road)に囲まれた地域)。“ユダヤ難民隔離区―Getto”の成立である。その時上海にいたユダヤ人は2万5千人。日本軍はこのゲットを約3年間管理したのだ。

ユダヤ人の多くは能力のある専門家で、教師、編集者、レポーター、作家、画家、音楽家、スポーツマンであった。彼らは隔離区域で学校を開設し、劇団を組織し、移動図書館を作り、音楽バンドを編成し、フットボールチームまで作った。時代の困難な状況下で、数十種の新聞雑誌が発行された。粗末なビルの一角で、130人ものプロのオーケストラさえたちどころに編成できたといわれる。

提籃橋の街角には、オーストリアのパン屋があり、ウイーンの人々が強いコーヒーを啜っていた。或る者は、地元のドイツ語の新聞を読んでいた。(ポーランド語、ロシア語、イーデイッシュ語の新聞さえ発行されていた。)コーシャフード(ユダヤ教の食物規定に基づく食物)の肉屋やドイツのデリカテッセンも近くにあり、聖日に使うお祭り用の蝋燭もアブラハム乾物屋で売られていた。

1945年第二次世界大戦が終ると、上海のユダヤ人は大部分上海を去り、イスラエル、米国、その他の国々へ散っていった。 第二次世界大戦以降、ユダヤ人はほとんど上海に残らなかった。

虹口区提籃橋の摩西会堂(Ohel Moishe Synagogue )は、市政府の記念館として公開され、当時の生々しい記憶を今に伝えている。すぐ近くのスラム化した旧ユダヤナ難民収容所も、ユダヤ難民が暮らした3階建てのアパート(舟山路59号)も当時のままのだ。カーター時代の前米国財務長官,M.Blumenthalは、このアパートの2階に10年間も暮らしていた。当時難民の老人、子供で溢れていた霍山公園には、ユダヤ難民記念碑が建っている。舟山路を歩くと、当時の光景が亡霊のように立ちのぼってくる。

いま虹口地区では、ユダヤ資本を入れて町の再開発が始まっている。かつてそこで過ごしたユダヤ人だけでなく、全てのユダヤ人が彼ら民族の虹口での歴史を保存しようしている。 CJSS (Center of Jewish Studies)のパンフレットによれば、いまもロスアンゼルスには、かつて虹口にいたユダヤ人の団体が発行する新聞、Hongkou Chronicle があるという。

中国にとって、エネルギ資源と絡むアラブ諸国との関係から、対イスラエル政策は微妙だ。ユダヤ教は今も、正式な活動を認可されていない。21世紀経済躍進が続く上海で、ユダヤ人は新たにどのような活動をするのであろうか。また新しい歴史が始まろうとしている。

http://www.sbfnet.cn/useful/history/18.html

ユダヤ人街、上海の歴史紡ぐ 世界遺産登録へ足跡記録
2015/4/19 0:37 日本経済新聞 電子版

 第2次大戦中、中国・上海でユダヤ人が暮らした記録を世界記憶遺産に登録しようとする動きが出ている。迫害で国を追われたユダヤ人にとって上海は一時、数少ない安住の地となり、その後は狭い区域で隔離生活を強いられた。かつての居住者らへのインタビューや資料収集が進められており、関係者は「登録を実現し、上海の知られざる歴史を世界に伝えたい」と意気込んでいる。

 「旧日本軍が占領した上海は当時、パスポートやビザがなくても上陸できる世界唯一の場所だったのです」。上海ユダヤ難民記念館に、訪れた観光客を案内する男性ボランティアガイド(30)の声が響く。

 上海市北東部、旧日本人街があった虹口区にある同記念館。観光地の外灘(バンド)に近く、周辺にはれんが造りの古い建物が残る。難民1千人以上が生活した住居、米国の配給組織の事務所……。かつてのユダヤ人の足跡がしのばれる。

 第2次大戦中、上海にはナチスの迫害を逃れ、欧州から少なくとも1万8千人のユダヤ人がたどり着いた。元駐リトアニア領事代理、故杉原千畝氏が政府の命令に背き発給した「命のビザ」でわたった人も少なくない。

 米英など各国の租界には中国政府の支配は及ばず、商売はもちろん、ヘブライ語の学校設立や新聞・雑誌発行も認められて自由を謳歌。虹口区のユダヤ人街は「リトルウィーン」と呼ばれた。日本軍が上海を占領した1937年以後もそうした状況は維持された。

 だが42年7月、暗転する。ナチスの在日幹部が「最終解決」と称し、上海のユダヤ人の大量虐殺を日本に迫ったためだ。

 日本は拒む一方で、虹口区に「無国籍難民隔離区(通称・ユダヤ難民ゲットー)」を設置。2平方キロ前後の土地に、上海のほぼすべてのユダヤ人を住まわせた。許可無く区外に外出もできず、木工や理髪など訓練をしながら自活したという。

 上海社会科学院上海ユダヤ研究センターの潘光主任(68)は「日本は日露戦争資金援助したユダヤ人への親近感とナチスの圧力の板挟みで、ゲットーは妥協案だった」と指摘する。

 「平手打ちされ、『なぜ外出する必要があるのか』とどなられた。ただ世界で受けていた迫害に比べれば困難とはいえない」。同記念館では、訪れたかつての居住者やその子供らへインタビューが放映されている。

 同館は当時の写真や映像、使われていたラジオや家具、公的証明書などの資料を収集。国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶資産への登録を目指している。陳倹館長(51)は「ユダヤ人の戦時中の生活を後世に伝えるため、ぜひ登録を成功させたい」と話している。

(上海=土居倫之)

http://www.nikkei.com/article/DGXLZO85867660Y5A410C1SHB000/

ちなみに、中公新書の「上海」にもこの件について簡略な記述がありますが、研究書も日本語で出ています。

上海 - 多国籍都市の百年 (中公新書)

上海 - 多国籍都市の百年 (中公新書)

太平洋戦争と上海のユダヤ難民

太平洋戦争と上海のユダヤ難民

日本占領下の「上海ユダヤ人ゲットー」―「避難」と「監視」の狭間で

日本占領下の「上海ユダヤ人ゲットー」―「避難」と「監視」の狭間で

それでも歴史戦を、とおっしゃるのであれば、クールなジャパンの武器を使わない手はないので、ここは「閃光のナイトレイド」を前面に押し立ててみてはいかがでしょう。

http://www.1931.tv/index.html