「AV業界健全化」への取り組み:「毎日新聞」の記事から

これ、つまりは「AV出演という行為」に透明性と合法性を与えていくという取り組みなわけですよね。この場合は「労働者」としての権利を云々するという話ではありませんが、「個々人の権利保護のための取り組み」という観点からして、法の網をかぶせていく「合法化」というのはあるべき方向性だと思います。

ただ、例えばフェミニズムジェンダー論に根ざす運動勢力がこうした取り組みをサポートする立場になかったりするのは、通常のことです*1。粘り強く実現を図っていくしかありませんけど、この方向での取り組みが賛同の輪を広げていくのは、ものすごく大変なはずです。というか、「敵だらけの茨の道」と言った方がいいかもしれません。

AV出演強要
業界健全化へ団体設立 元女優の川奈さん
毎日新聞2016年7月8日 15時36分(最終更新 7月8日 18時59分)

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AV出演者の支援団体設立について説明する元AV女優の川奈まり子さん=東京・千代田区の毎日新聞東京本社で2016年7月8日、加藤隆寛撮影

 「タレントにならないか」などとスカウトされた女性らのアダルトビデオ(AV)への出演強要を人権団体が告発した問題で、元AV女優で作家の川奈まり子さん(48)が8日、毎日新聞のインタビューに応じ、出演者を支援し、業界の健全化を図るための団体「表現者ネットワーク(AVAN)」を設立することを明らかにした。一般社団法人として11日に発足させ、AV出演者が所属事務所と交わす契約書の統一様式策定などを進める。

 特定非営利活動法人NPO)「ヒューマンライツ・ナウ」が「脅されてAV出演を余儀なくされる事例が後を絶たず、著しい人権被害だ」などとする調査報告書を公表したのは今年3月。川奈さんは直後から「AVを有害業務と決め付け、職業差別を助長している」などとフェイスブックなどSNS上で反論するとともに、出演強要問題の解決を訴えてきた。

 AVAN(アヴァン)は「Adult Video Actress & Actor‘s Network」の略で、仏語の「avancer」(前進する)のイメージを重ねた。「これまで出演者のための業界内部の団体がなかった。AV出演を肯定的にとらえながら、より良い環境で仕事ができるようサポートしたい」と川奈さん。統一契約書の策定などで、出演者がプロダクション(所属事務所)やメーカー(制作者)との関係において不利益を被らないよう支援するとともに、現場で発生した問題などの相談窓口も設ける。また、プロダクションを準会員、メーカーを賛助会員として迎え、業界全体で連携して改善に取り組めるよう促す。

 「AV出演者であることを理由に賃貸マンションの契約を断られた」など、さまざまな生活上の相談にも乗る方針。川奈さんは「AV引退後に仕事を得ることは難しい。『私はもうAV女優ではありません』と言っても差別される」と話し、出演料の一部を積み立ててセカンドキャリア応援金として渡すなど引退後のサポートも計画している。【AV問題取材班】

川奈まり子(かわな・まりこ)さん

 1967年、東京都生まれ。女子美術短期大卒。出版社勤務やフリーライターなどを経て1999年に31歳でAVデビューし、2004年に引退するまでピンク映画やVシネマを含む多くの作品に出演して人気を集めた。2011年、「義母の艶香」(双葉文庫)で本格的に作家デビュー。その後も官能、ホラー小説や怪談実話などのジャンルで活躍している。夫はAV監督でメーカー「ソフト・オン・デマンド社外取締役溜池ゴロー氏。

http://mainichi.jp/articles/20160708/k00/00e/040/260000c

AV出演強要
合法的出演の環境整備を
毎日新聞2016年7月11日 19時53分(最終更新 7月11日 20時43分)

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AV出演者の支援団体設立について説明する元AV女優の川奈まり子さん=東京・千代田区の毎日新聞東京本社で2016年7月8日、加藤隆寛撮影

 アダルトビデオ(AV)の出演者を支援し、業界の健全化を図るための団体「表現者ネットワーク(AVAN)」が11日、発足した。AV出演者同士の横のつながりを強め、悩みの相談窓口を設けるなどさまざまな形でサポートに当たる。同ネットワーク代表を務める元AV女優で作家の川奈まり子さん(48)は、「メーカー(制作者)やプロダクション(所属事務所)の賛同を得ていくことも重要」と話し、出演者との間で交わされる契約書の統一様式策定を当面の活動の中心に据える。その狙いや具体的な支援策を聞いた。【AV問題取材班】

−−業界健全化のために重要なことは?

川奈さん 業界内には「出演者の団体ができたら困る」と思っている人、疑心暗鬼になっている人も大勢いるので「こういうものができないと業界そのものがなくなっちゃいますよ、壊滅しちゃいますよ」と話し合っています。警察関係者ら幅広い人の忠告、提言を聞きながら、なんとか合法的にAVに出演できる環境を作りたい。出演者だけで固まればうまくいくかというと、そうではありません。AV業界そのものが良くなっていかないと、なかなか人権は守られにくい。だから、(メーカーやプロダクションなど)AV業界の他の団体にも「みんなで良くなりましょう」と呼び掛けています。

−−実際にどのような仕組みを作るのですか?

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川奈さんが考えるAV出演者支援の仕組み=AVAN提供

川奈さん 出演強要や不当な出演料の搾取がなぜ起こるかというと、プロダクションやメーカーの利益だけを考えた非常に不公平な契約が結ばれているからです。出演者はいいようにプロダクション、メーカーにあしらわれてしまう。そこで、まず私たちのような第三者機関が契約書を作成し、プロダクションが準会員に、メーカーが賛助会員になっていただく中で、会員たちに使ってもらう。入会の条件にするわけです。すると出演者は業界にいる間、入り口から出口までの権利がずっと守られる。契約書を出演者がもらっていないなどということもないよう、運用マニュアルまで作ろうと思っています。

 「絶対に違法な行為はしない」「出演者の権利はこのように守る」といった会則に従っていただければ、安心なプロダクション、安心なメーカーということになる。出演者は自分が関わるプロダクションやメーカーを選ぶことができる。そうすると被害がほとんど防げると考えています。

−−相談窓口はどのようなものになりますか?

川奈さん AV出演者には厳然として職業差別があり、社会的に本当に弱い立場です。一度出ただけで人生が制限されてしまう。じゃあ、出演を隠せばいいのかというと、これもまたやっかいな問題があって、隠しているとバレる恐れもある。秘密を握った人が脅迫者にひょう変するというのも非常に多く、ストーカーや脅迫の被害にも遭いやすい。だから、まず悩み相談窓口を設けてその問題に最適と思われる方を「アドバイザリーボード(有識者らでつくる助言のための委員会)」から選んで紹介します。例えば民事暴力に強い弁護士、風俗関係に強い弁護士、人生相談に乗ってくれるカウンセラーなどです。

 被害が起こった後は警察にお任せした方が早くて正しいのでしょうが、被害は「未然に防いでこそ」です。「被害に遭いそう」「出演内容をちゃんと説明されていないのに明日出演しなくちゃいけない」というときに相談できる窓口が必要で、一分一秒を争うとき、こちらは業界内部にも知り合いがいますので、対処できます。

 AV女優同士はライバル関係。「つらかった」と相談しても「だったら私がその仕事やるわ」ということになりかねない。親しいAV監督に「よその現場でこんなことがあった」と言うと、その監督は「大変だったね」と言いながら「俺の現場で文句言ってほしくないな」と思うかもしれない。出演者はすごく孤立しやすい。気軽に相談できる窓口があったら、小さな悩みでも相談してもらえる。小さな悩みだと思っていることが、実は大きな問題をはらんでいる場合ということも往々にしてあります。業界外の人権団体がAVで被害に遭っている人のために立ち上がってくれるのは非常に心強くてありがたいのですが、そういう人権団体の方が完全にAV出演を肯定的にとらえてくれるかというと、そうではない。すると、現役の人たちは相談するところがなくなってしまうんです。私たちのようなところを頼ってくれるといいなと思います。

−−他にはどんな対策を考えていますか?

川奈さん 「AV出演マニュアル」を作って公開しようと思っています。「こういうスカウトはインチキだよ」「こういうふうにAV業界に入ってくることはあり得ないよ」などと、情報提供します。団体ができること、それからマニュアルを作ることで、一般の社会にとっても「AV業界は思っていたよりも怖くない」「いや、でも一歩間違うと非常に危ない部分もある」というような、フェアな目で見ていただけると思うんです。

 あとは、例えば退職金代わりになるよう、出演料の一部をメーカーに積み立ててもらい、引退するときにまとめて支払うことも考えています。確定申告の教室や演技のワークショップを開くなど、いろいろなことができると思います。

−−人権団体による強要被害告発の後、大手AVプロダクション元社長らが逮捕された労働者派遣法違反事件もありました。AV出演者は「労働者」なのでしょうか?

川奈さん 「労働者」ではありません。労働基準法では「雇用主に時間を拘束される」「雇用主に指揮監督権がある」「諾否の自由が制限される」というような条件で、労働者性の有無を見極めます。AV出演者に労働者性がある場合、「出演しろ」と言われたら諾否の自由がないとか、プロダクションやメーカーの人間に「脱げ」と言われて脱ぐとか、「やれ」と言われたことをやるということになりかねない。そうすると、ものすごく人権が毀損(きそん)されてしまう。そういうわけで、やはりAV出演者は「表現者」でなければならないと思うんですね。自立した表現者が自由意思で出演するという状況でしか、絶対にAV出演は許されてはならない。私自身がそうやって活動してきたので、もしそうじゃない人がいたら、どんなにかつらいだろうと思うんですね。

 AV出演者が完全に自立したアーティストであり、自由意思で表現活動を行っている場合、職業安定法や労働者派遣法違反による摘発対象にはなりません。一方で、「表現者」として立つと労働関係法で守られなくなってしまう部分があるので、団体で保険に入るなどしてカバーしたいと思っています。

 この会の運営の根幹には、やはり「AV活動を健全にしていかないといけない」ということがあるので、AV出演者の方を向いているのですが、ただ、プロダクションやメーカーの賛同も得ながらでないとうまく運営できないだろうと考えています。

http://mainichi.jp/articles/20160712/k00/00m/040/031000c

*1:現時点ですでにヒューマンライツナウと「衝突」していることからも、そのことはうかがえます。

【横浜の風景】ドリームランドの夢の跡・1:横浜薬科大学と春日神社

こちら、俣野公園と呼ばれている一帯ですが、要は昔のドリームランドの跡地です。JR東海道本線側から言えば戸塚駅大船駅が最寄りになります。小田急江ノ島線からなら湘南台駅ですかね。どの駅からも歩けるほど近くはないですが、マルチアクセスな場所ではあります。

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横浜ドリームランド - Wikipedia
俣野公園公式サイト|公益財団法人 横浜市緑の協会

横浜薬科大学は、ドリームランド閉園後、その跡地に開学した新しい大学で、整然としたキャンパス内には「ドリームランドの夢の跡」も多少残っています。

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キャンパスの真向かいの俣野公園内には「俣野公園横浜薬大スタジアム」という立派な野球場があり、「薬科大なのに野球部に力入れてるの?」と思ったのですが、これは横浜市営の野球場にネーミングライツを導入したものでした。

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この野球場の向かい側にある春日神社は、ドリームランド開園とともに奈良の春日大社から勧請されてできたんですね。それで神鹿苑があるわけですか。

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奈良的な感覚からすると、「金網越しってのがちょっと…」と思うのですが、鹿せんべいも売っているみたいで、関東にいながらちょっとした奈良気分を味わうことができるかもしれません。

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うーん。まだ寄り道しかしてない。

【横浜の風景】「フェリス、とだけ言っておきましょうか♪」

青木光恵ファンであれば、何のネタを言っているのか、即わかると思います。

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となれば、仁和寺の法師でもあるまいし、横浜くんだりまで来てフェリスを見ずに帰るわけにはいきません。

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個人的には、「フェリスの女の子と付き合う」ような縁は、これまでまったくありませんでしたけどね。

それはまあともかく、横浜山手が重ねてきた近代史の一角をこの学校が占めていることは間違いありません。そのような歴史の中で学べるのは、幸運なことであると思います。

戦後70年
戦時中のミッションスクール、弾圧に耐えて過ごした日々 残されたキリスト教主義
2015年8月24日12時53分 記者 : 坂本直子

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フェリス女学院が100周年を記念して刊行した『100年史』(写真中央および右)とフェリス白菊会誌『白菊』(写真左)。フェリス白菊会は1907年、同学院の同窓生と在校生の親睦をはかり、教養を高めることを目的に組織された同窓会。

日本のクリスチャン人口は1%といわれながら、ミションスクールと呼ばれるキリスト教系の学校は全国に380校以上あり、その数は決して少なくない。教育においても聖書の教えに基づく「全人教育」は奨励され、クリスチャンでない人でも普通に受け入れている。特に女子校は「お嬢様学校」と呼ばれるところも多く、おしゃれなイメージもあって受験生の人気は常に高い。そんなミッションスクールだが、70年前までは、当時の国家主義に反すると攻撃を受け、太平洋戦争下においては敵国によって建てられた学校だと危険視され、有形無形の圧力をかけられていたのだ。

ミッションスクール発祥の地にあるフェリス女学院(奥田義孝理事長)も戦時下、数々の困難を乗り越えてきた。このことは、『フェリス女学院100年史』に詳しく記される。また、創立150周年を迎える同学院では、現在『フェリス女学院150年史資料集』も刊行され、その中にも戦時中の資料が収められている。さらに、過去に行われた、戦時中に教職者や生徒だった人たちが集まっての座談会の記録から、同校を含め戦時下のミッションスクールがどのように過ごしてきたかを知ることができる。

1870年、アメリカ改革派教会の婦人宣教師メアリー・キダーによって創設されたフェリス・セミナリー(当時)は、他のミッションスクールよりも、日本人のために女子普通教育機関として定着させることを意識していたという。そのため英語だけに重点を置かず、習字をはじめ、『日本外史』や『皇朝史略』『貞女鏡』などの和漢書の授業も行われていた。81年、ユージン・ブースが校長になり、99年、私立学校令により、フェリス和英女学校になる。ブースは1922年まで校長を務める。23年、関東大震災により校舎は壊滅し、婦人宣教師ミス・ジェニー・M・カイパー校長は殉職する。そして24年にルーマンシェーファー校長が就任する。しかし、日米関係の悪化という状況下では、同校も他のミッションスクール同様苦境に立たされてしまう。

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フェリス女学院150年を記念して刊行された150年史。現在第3集まで刊行されている。第4集以降も引き続き刊行される予定。

学校経営面での大きな打撃は、財団法人への切り替えだ。それまで宣教師の派遣元であるアメリカ改革派教会から多額の援助を受けてきた同校にとって、従来の援助が受けられなくなることは、大きな痛手であった。また、米国人であったステゲマン校長が退任し、70年間に続く米国人校長の時代は終わり、1940年、都留仙次(1884-1964)が新しい校長として就任した。通常就任式においては日米両国旗を通常交差して飾られていたが、この時から日の丸だけが飾られるようになっていく。

さらに、校名も明治以来の英語名を避けて「フェリス和英女学校」から「横浜山手女学院」と変更されてしまう。事態の緊迫は、国旗掲揚、宮城遥拝(ようはい)を強制され、生徒たちは、制服をモンペに履き替え、勤労奉仕に駆り出されていくことになる。この頃になると米国宣教師団も帰国してしまう。こういった一連のことは、同校だけでなく、同じく横浜にあったミッションスクール、共立女学校(現:横浜共立学園)、捜真(そうしん)女学校、横浜英和女学院、横浜紅蘭女学校(現:横浜雙葉学園)でも同様だった。

一方教職員は、強制的に申請させられ下付(かふ)された「御真影(ごしんえい)」を守るために誰かがいつでも当直しなければならなかった。42年になると「金属回収令」が出され、学院中の鉄、銅を全て供出することになり、教職員は校地周囲の柵(5トン)から講堂のシャンデリア、門灯、ネームプレートに至るまで一切を外してまわり、軍部に供出しなければならなかったのだという。

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フェリス女学院の普通教室。戦時中は海軍に貸与されていた。(写真:フェリス女学院資料室蔵)

時間割では週6時間だった英語の授業は週3時間となり、校舎を海軍に全面貸与していたため寄宿舎の2部屋を打ち抜いて畳敷きのまま座って授業が行われた。しかしその授業も、時局の悪化とともに勤労動員のほうが重視されるようになり、44年3月には在学中でありながら修了証書を出して勉学を打ち切り、高等部は閉鎖されてしまった。

このような状況の中でも毎朝の礼拝は食堂で全員起立して守られ、必ず都留校長が最後に「今日も味方の兵士の上にお恵みを、それと同時に敵の兵士の上にも」と祈り、またある時は「この戦争を一日も早くやめ給え」とすら祈ったという。このことは、当時の生徒たちの心にも強く残っており、「あの頃はほんの子どもで、一緒に『アーメン』と言って祈っていたが、今思えばあの時代にそういうことを口に出して祈ることは大変勇気のいることだったのではないかと思う」と当時の生徒は振り返っている。

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戦時中のフェリス女学院の校舎全景(写真:フェリス女学院資料室蔵)

実際、都留校長のこのような姿勢が、生徒たちを戦争に対して盲目的、熱狂的にさせなかったという。勤労出勤強化に伴って、当局から授業を日曜日に行うよう指示された時も同校では実施しなかったし、聖書の授業も継続して行っていたと明かす。生徒たちも、勤労奉仕先の工場でも礼拝は行っていたという。当時勤労奉仕に駆り出された人の話では、礼拝は「フェリスの本質を求めてやまない気持ちが自然に湧き上がってきて」生徒が自主的に行っていたと言い、「毎日できなかったが、見えない力に支えられているという安心感があった」と述べている。
終戦直後、これまで海軍に占領されていた校舎は、今度はGHQに占領されることになり、ようやく45年10月に返還されたが、実際に校舎が使えるようになったのは46年になってからだったという。同校にとっての大きな悲しみは、失ったもののの多さだ。肉親や家、財産、さらに長年信仰において結ばれた海外との友好も失った。また、生徒たちは再び取り戻すことのできない美しい青春と学びの時を失ったと『100年史』は締めくくる。

ただ、当時の記録を読むと、都留校長が経営困難にことよせて関係者から普通の高等女学校になることを勧めらていたことや、憲兵からは学校の方針について度々詰問を受けていたことが分かる。想像を絶する困難さの中でも他者への祈りを忘れず、キリスト教主義の学校を守ってきた都留校長の姿が、同校の現在を支える大きな力となっていることを感じずにはいられない。

http://www.christiantoday.co.jp/articles/16781/20150824/mission-school-yokohama-wartime.htm

できたら、旧1号館が解体される前に、来てみたかったです。

フェリス女学院 1号館

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東京でも二川さんのエロいパス炸裂

J2でも上位に食い込んでいるファジアーノ岡山にも加地さんや赤嶺選手といったガンバ大阪ゆかりの選手もいたのですが、この日の味スタの主役は何と言っても二川さんでした。

連発された悶えそうにエロいパスも、途中見せたミドルシュートも、まさに二川さんらしいプレーでした。さすがです。

www.youtube.com

東京V二川が初先発で決勝アシストも、勝利のラインダンスに「うそやん…」
16/7/11 07:30【Jリーグ 一覧】

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[7.10 J2第22節 東京V2-1岡山 味スタ]

 頼れる男が加わった。東京ヴェルディファジアーノ岡山に2-1で勝利し、3戦ぶりの白星を手に入れた。決勝点をアシストしたのはガンバ大阪から期限付き移籍で加入してきたばかりのMF二川孝広。ホームデビュー戦で先発すると結果を残した。

 6月28日にG大阪からの期限付き移籍が発表され、自身初の移籍で東京Vへ加入。慣れ親しんだ青黒のユニフォームを脱ぎ、緑のユニフォームへ袖を通すことになった。7月3日に行われた前節・北九州戦(1-2)で初のベンチ入りを果たし、後半12分から途中出場でデビュー。

 迎えたこの日のホームデビュー戦では、4-2-3-1のトップ下で先発。「最初から出る方がやりやすい部分があるので、しっかり動いてボールに絡んでいこうと思いました」という意気でゲームへ入った。

 試合は先制するも追いつかれる展開に。押し込まれる場面も目立つタフなゲームとなったが、後半38分に二川が仕事を果たす。MF南秀仁のパスを左サイドで受けた二川は利き足とは逆の左足でクロスを入れる。ニアサイドにはFW高木大輔やDFウェズレイも詰めたなか、質の高いボールは緩やかに伸びて、最後は飛び込んだDF井林章が頭で決めた。これが決勝点。東京Vが2-1で勝利した。

 試合後、決勝アシストの二川は「一瞬、何個か判断を迷いましたけど、左(足)でいこうという感じで」と話し、「だいたいあの辺かなという。ちょうどいいところにいってラッキーでした」と飄々と振り返った。ゴールを決めた井林は「(クロスは)やさしかったですね。本当に合わせるだけでした」と感謝を口にした。

 36歳のベテランMFだが、キャリア初の移籍を経ては気負う部分もあった様子。「ホッとしてますね。最初に(ホームで)まず結果を出せて、これで落ち着いていけると思うのでいい結果につながってよかったです」と安堵の表情を浮かべ、「ある程度チャンスは作れていましたけど、もう少し精度の高いパスを出して、チャンスにつなげていきたいと思います」と先を見据えた。

 東京Vの冨樫剛一監督は「二川のファーストタッチからの次へのパスはボールが入る前のイメージや景色が残っていて、やはりすごいなと。ベンチから見ていて感心していました」と称える。

 東京Vではホームでの勝利後には、ゴール裏での“ラインダンス”が恒例となっている。この習慣を試合当日に知らされたという二川は「うそやんと思いました」と苦笑い。実際にはDF安在和樹とDF安西幸輝の間に入って、ラインダンスを踊ったが「それはもうしょうがない……」と笑いつつ、半ばお手上げムード。この日はラインダンスのみならず、ゴール裏目前で拡声器を使い、サポーターに挨拶するまでをやり切った。

 慣れ親しんだ過ごしやすい環境を自ら手放し、チャレンジを決断するのは簡単なことではない。それでもサッカー選手として18年目のシーズンを過ごすベテランMFは、覚悟を胸に新たな地での挑戦をスタートさせている。

(取材・文 片岡涼)

http://web.gekisaka.jp/news/detail/?193735-193735-fl

それにしても、このゲキサカの記事は、プレーだけでなくキャラも熟知した書きぶりですね。


ともあれ、まだまだできる選手です。前半は低迷していたヴェルディを引き上げる活躍も、期待できそうです。

www.youtube.com

www.jsgoal.jp

日本代表、J1優勝、FIFAクラブワールドカップ出場など、積み重ねてきた経験値は超本格派。これだけの選手が獲得できる好機は、そう滅多にない。「(キャリアは)キレイな終わり方はしたくない」と、泥臭さも滲ませた“エロいパス”の使い手が加わり、どのような化学反応が起こっていくのか。ワクワクせずにはいられない。

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湘南の敵を横浜で討つ。

大雨でずぶ濡れになってもにゃんこ一匹捕捉できなかった湘南の敵は、

焼けるように晴れ上がった横浜で討つことができました。


さすがはズーラシアの横浜。入場無料とはなかなかやりよるな、お主。


ただ、敵は討ったものの、暑さには負けた気がします。外回りは辛い。

横浜、この凶々しき聖地

いや、わかってるんですよ。

大阪・神戸に並ぶ三大KARA聖地の一つです、横浜は。

KARA THE 4th JAPAN TOUR 2015“KARASIA”(初回限定盤) [Blu-ray]

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でもね。

能見台のような凶地のある場所ですからねえ、ここは。

ドキュメント横浜vs.PL学園 (朝日文庫)

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KARA出身スンヨン日本からの女優オファー心待ち
[2016年7月9日16時12分]

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スンヨンは自身初のソロ写真集「19880724 おはつ、わたし」をPR(撮影・柴田寛人)

 昨年まで韓国ガールズグループ「KARA」で活動したスンヨン(27)が9日、東京・渋谷で初のソロ写真集「19880724 おはつ、わたし」(ぴあ発行、特典DVD込みで5000円=税別)の発売記念サイン会を開いた。

 開催前の記者会見で「28歳(数え年)のスンヨンらしく、おとなしく自然な姿を見せようと思って、髪形とかメークに気を付けました」と説明した。

 KARAで14年春まで一緒だった知英(ジヨン)も先月、2冊目の写真集「美 Gently」を発売したばかり。スンヨンは「インターネットの投稿で、知英ちゃんと私の写真集の写真が並べてあって、うれしかった。知英ちゃんとはいつも連絡を取っています」と話した。

 知英が公開中の映画「全員、片想い」で男装姿を披露していることには、「ショートカットの知英ちゃんがすごく格好良くて、『クールだね』って連絡したら、『ありがとう、お姉さん』と返事が来ました。私の理想の男性のスタイル」と絶賛していた。

 8日には神戸市でファンミーティングを開き、10日には東京・立川でランチショーを予定。今年から始めたソロ活動に本腰が入ってきた。「機会があれば何でも頑張ります。歌、モデル、トーク、司会…。韓国ドラマにも出ているので、だれかが私を必要だと言ってくれれば」と、日本からの女優オファーを心待ちにしていた。

 昨年まで4人組(ギュリ、スンヨン、ハラ、ヨンジ)のKARAとして活動したが、ヨンジ以外の3人が今年1月、契約満了で所属事務所を退社。KARAとしては事実上の解散状態にあり、それぞれがソロ活動を始めている。ヨンジは今月2日、東京・品川で自身初のファンミーティングを開催。ギュリ出演の韓国映画「2つの恋愛」はこの日、東京と大阪で公開された。

http://www.nikkansports.com/entertainment/news/1675798.html

PL学園 大きな拍手受け開会式で行進/大阪
[2016年7月9日17時40分]

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京セラドーム大阪を行進するPL学園ナイン(撮影・上田博志)

高校野球大阪大会:開会式>◇9日◇京セラドーム大阪

 第98回全国高校野球選手権大阪大会の開会式が行われ、今夏を最後に休部するPL学園がスタンドの大きな拍手を受けて行進した。

 場内に学校名がコールされたとたん、球場全体から拍手がわき起こり、12人の行進を後押し。エースの藤村哲平(3年)は「拍手はよく聞こえました」と語り、梅田翔大主将(3年)は「うれしかったです」と顔をほころばせた。

 PL学園は15日に花園で、11年の代表校、東大阪大柏原と初戦(2回戦)を戦う。

http://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/1675745.html

ディエゴ=フォルランの言葉:ACLとJリーグ

いろいろ耳を傾けるべき言葉が並んでいると思います。

www.footballchannel.jp

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中でもこのくだりは、私自身前々から考えてきたことに触れるものでした。

ガンバ大阪とACL、Jリーグとアジアサッカーの現地点 - 大塚愛と死の哲学
ACLはどの国のリーグの存在意義も問われる場 - 大塚愛と死の哲学
ACLの中間評価:あからさまな結果論、でも結果から学ばねば - 大塚愛と死の哲学

 最後に日本フットボールがよくなるためにフォルランは何が必要だと考えているのだろうか。彼は次のようなメッセージを残してくれた。

「日本には優れた選手が揃っている。Jリーグもいい。しかし問題なのはAFCチャンピオンズリーグで勝てないことだ。日本代表には海外でプレーする選手が揃い、レベルも高く、中国や韓国にも勝利している。しかしJリーグのクラブはホームでもアウェイでも勝てない。

 国際試合でJリーグのチームが勝利することが、まず日本フットボールを強くする方法だろう。アジアのチームに勝てないでなぜヨーロッパや南米のクラブチームに勝利できるだろうか?

 Jリーグは成長している。しかしそれを国際試合の領域に広げていかなければいけない。世界に目を移せば国際トーナメントの方が自国リーグよりもはるかに重要視されている。日本はその逆だ。ヨーロッパチャンピオンズリーグはワールドカップの次に重要な大会だ。リベルタドーレス杯は3番目に重要な大会だ。

 しかしAFCチャンピオンズリーグを日本人の誰もが重要視していない。国際トーナメントにもっとモチベーションを高めるべきだ。日本のクラブチームは国を代表すると意識すべきだ。国を代表していることを意識し、誇りを感じるべきなんだ。日本に残った選手のレベルを上げ、彼らが代表のベースとなり、成長していかなければいけないだろう」

http://www.footballchannel.jp/2016/07/08/post162505/3/

ただ、今年の結果については何も言い訳できませんけど、少なくともガンバ大阪ガンバ大阪サポーターに関する限り、「ACLを重要視していない、ということは決してない」と、断言してもよいと思います。J1優勝を誰もが渇望していることは当然ながら、その前にまずACL出場権、そして真に目指すべきはその先にあるACLチャンピオンの座とクラブワールドカップ出場権です。

ACLに出場し続け、その中でアジアのクラブチャンピオンの座を常に狙える位置に居続けること。日本のサッカー界におけるガンバ大阪のレゾンデートルはそこにあるべきだと思っています。

つまり、今シーズンのセカンドステージ以降のノルマはACL出場権絶対確保」にあります。

異議ございますか?

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『漫画ルポ 中年童貞』

漫画化しているのは聞いていましたが、それが完結したんですね。

http://www.leed.co.jp/cafe/comic/?id=25www.leed.co.jp

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「原作」はもちろん読んでいます。その内容をほぼ忠実にマンガ化しているようです。

この絵柄は正直、苦手なんですけど、「中年童貞」の世界を描くには「こうでなくてはならない」といった必然性もまた、感じます。単行本が出たら、買うかなあ。

ルポ 中年童貞 (幻冬舎新書)

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中村淳彦さんの問題意識は介護現場からきていますし、上の『SPA!』の対談を読めば、酒井順子さんの「負け犬」論から「子の無い人生」論への流れや「ポエム化する社会」論などにもつながってきていることがわかります。この話は、いろんなところに結びついて、さらに展開していきます。

崩壊する介護現場 (ベスト新書)

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子の無い人生

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ポエムに万歳!

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夏の高校野球・「大阪大会準優勝」ということ

これは、高校野球ファンには興味深い記事でした。個人だけでなく、学校単位でも、勝負運というのは本当に不思議なもので、大阪では長年「強豪校」として位置づけられてきている大商大堺が甲子園に一度も出場したことがないというのは、間違いなく大阪高校野球界の七不思議の一つに数えられるはずです。

いま大阪の高校野球界に君臨する大阪桐蔭履正社も台頭してきたのは大商大堺よりずっと後ですし、他の新興校でも金光大阪東大阪大柏原大阪偕星学園のようにわりとあっさり甲子園出場を果たした学校もあります。「そろそろ大商大堺も…」と思われてから、もう何十年経っているでしょうか。

また、公立校に目を向ければ、戦前や戦後すぐの時期に出ていた市岡や八尾・北野のような学校は措くとしても、春日丘や渋谷のように、堂々と夏の大阪大会を勝ち抜いて甲子園に出場した学校もあります。私立校が圧倒的優位な大阪ですけど、公立校だからと言って甲子園出場を諦めるムードがあるわけでもありません。大阪にはシード校の制度もありませんし、何が起きるかわからないですからね。

高校野球データベース 夏の地方大会編 夏の大阪大会全戦績
大阪・全成績

私が生きている間に、母校が甲子園出場を果たす可能性も、ゼロではありません。そう、ゼロでは、ない!

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甲子園まであと1勝 準優勝校の悔しさ・達成感 大阪
荻原千明2016年7月5日15時25分

 第98回全国高校野球選手権大阪大会が9日に開幕する。優勝して甲子園に出場する高校と同じ数だけ、涙をのむ準優勝校がある。「あと一つ」に迫ったからこそ見える景色、悔しさ、達成感――。その思いは後輩に受け継がれ、学校創立以来初めての甲子園を目指す原動力にもなっている。

大商大堺 「甲子園は想像の世界」

 2003年の第85回全国高校野球選手権記念大阪大会決勝で、大商大堺堺市中区)はPL学園に4―5まで詰め寄っていた。九回表、大商大堺の3年生だった福家一範さん(31)の前の打者が死球で出塁し、2死一、二塁のチャンスに。一打出れば甲子園、だめならゲームセット。藤井寺球場が歓声で震えていた。

 福家さんは「100%初球を打つ」と決めていた。相手捕手の性格を考え、内角が来る確信があった。捕手は内角にミットを構えたが、実際にボールが来たのは外角低め。打った瞬間、「終わった」と思った。

 一塁に向かうまで、スローモーションになった。走りながら、「これで終わりか。高校が終わったら、大学か」と考えていた。「3年間やりきったな」「この先、どうなるんだろう」

 さらに、「これ、一塁にヘッドスライディングするよな。で、泣くよな。でもそれってみんな一緒やな」とまで考えていた。

 間近に迫った一塁ベース。なぜか頭ではなくひざから滑り込み、そのまま正座するように、ベースを抱え込んだ。二塁ゴロ。ひざがズルむけになった。

 「僕らには『ついに決勝まで来た』という思いが少しあった。PL学園は甲子園に行くという執念しかなかった」。その後、法政大に進学して野球を続けたが、今は介護サービス会社の社長を務める。

 あの打席、思った通りの内角球が来てホームランにする――。そんな夢を今も見るが、甲子園に出た夢を見たことは一度も無い。「甲子園は死ぬまで想像の世界。今の大商大堺の選手にとっても、甲子園は想像だと思う。それが現実になってくれたら」と願う。

 大商大堺は2年後の05年夏も決勝に進んだが、中田翔選手(現・日本ハム)らを擁する大阪桐蔭に敗れた。14年まで監督を務めた敷嶋義之さん(62)は同校を夏のベスト4にも3度導いた。「甲子園は近いと思っていたけれど、監督をやればやるほど遠くなるようだった」

 現チームは昨秋の府予選で初優勝し、選抜大会につながる近畿大会に出場した。しかし初戦で敗れ、また甲子園を逃した。

 エースの神田大雅投手(3年)は、大阪桐蔭の松山心選手ら中学時代のチームメートが今春の選抜に出場するのをテレビで見たという。「甲子園に行くためにやってきた」。先輩たちがあと一歩で立てなかった夢舞台。「今年こそ」という強い気持ちで挑む。

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2003年の大阪大会決勝。大商大堺・福家一範選手(右下)の二ゴロで試合終了となった=藤井寺球場

     ◇

 大商大堺4―5PL学園 PL学園が先頭打者本塁打などで三回までに5点を奪い、3投手の継投で逃げ切った。大商大堺は三回に2点を返し、六、七回には1点ずつ加えたが、届かなかった。

■岸和田 12人の戦い、運あった

 「十二人の小さな円陣がとけた」。1968年の第50回大阪大会決勝の始まりを、翌日の朝日新聞大阪版はそう記している。円陣を組んだのは、準優勝した岸和田(岸和田市)。部員が当時の登録選手枠(17人)に満たなかったからだ。

 「打たれたことだけ覚えています。『コールドになるんじゃないか』と心配していたら、決勝はコールドが無かった」。エースだった長谷部優さん(66)は振り返る。準決勝まで6試合を1人で投げ抜いた。

 決勝の相手は「私学7強」の一つ、興国。初回に2点を先取したのは岸和田で、長谷部さんが「20年野球をやって唯一」という本塁打を放った。しかし、「そんなのを打つからいけないね」。四回に追いつかれ、2―10で敗れた。興国はそのまま、夏の甲子園を制した。

 「後から『あれが惜しかった』『これが惜しかった』と言うけれど、10人ほどで本当に甲子園に行けるとは思ってなかった」と長谷部さん。「運があった。みんな頑張っていたし」

 進学校の岸和田に入学して野球部に行くと、すでに1年生がスタメンで練習試合に出ていた。普段の練習は6、7人。100人規模でしのぎを削る強豪私学とは全く環境が違った。

 後に日本少年野球連盟(ボーイズリーグ)で副会長を務める佐々木勇蔵さんが、岸和田を熱心に応援してくれた。泉州銀行(当時)の頭取で、長谷部さんの両親が転勤で兵庫県に引っ越すと、佐々木さんの家に住んで学校に通った。夏の大会前は他の部員も泊まり、まるで合宿だった。

 決勝で負けた後、「相手はすごい練習をしているから、負けてもしゃーない」と思った。ただ、「佐々木さんが期待してくれていたのになぁ」と悔やんだ。

 同年に阪急ブレーブスがドラフト3位で指名したが、「野球は高校で十分」と拒否。慶応大で野球を続け、松下電器ではアマチュア世界大会の日本代表に選ばれた。「満足ですよ」と振り返る。

 この夏、後輩たちは55人で大会に臨む。春の府予選は5回戦まで進んだ。北村颯都(はやと)主将(3年)は「甲子園は今までも『目標』だったが、春に勝ち進み、乗り越えなければいけないところが見えた。甲子園が遠い存在ではなく具体的になった」。

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1968年の大阪大会決勝で興国に敗れ、ベンチ前でうなだれる岸和田の選手ら=日生球場

     ◇

 岸和田2―10興国 岸和田が初回、長谷部の本塁打で2点を先取。興国は三回まで無得点に抑えられたが、計18安打で大勝した。

■桜塚 「夢みたい」 現実感なかった

 1998年の第80回記念北大阪大会の決勝前。藤井寺球場の一塁側ベンチに、桜塚(豊中市)監督だった和田充司さん(56)が腰掛けていた。静かで、「夢みたいだなぁ」と思った。

 取材は殺到し、応援も最高潮に達していた。ただ、「甲子園まであと1勝」という現実感はなかった。

 相手は春の選抜準優勝の関大一久保康友投手(現DeNA)を擁する優勝候補の本命だった。

 初回、先頭打者が打席の後ろぎりぎりに立って速球をヒットに、4番打者は打席の一番前に立ち、曲がり切る前のスライダーに合わせた。和田監督が事細かに指示したわけではない。「個人個人が考えて打席に立っていた」。選手にのびのびプレーさせようとサインで縛らなかった。

 桜塚の決勝進出は第48回大会(66年)以来2度目だった。この時のエースは故・奥田敏輝さん(元阪神)で、98年のエース・畠山将典さんと同じ右横手投げ。奥田さんも球場に応援に駆けつけたが、久保投手に要所を抑えられ、前回の決勝と同じ0―4で涙をのんだ。

 和田さんは現在、母校の茨木で監督を務める。茨木も第29回大会(47年)で決勝に進んだが、まだ甲子園の出場がない。「甲子園は小学校のときから変わらない夢。一生に一度、行きたいところです」(荻原千明)

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1998年の北大阪大会決勝後。敗れた桜塚の選手らは関大一の選手と一緒に記念写真を撮った=藤井寺球場

     ◇

 桜塚0―4関大一 関大一が初回に適時三塁打で2点を先取。二、八回に1点ずつ加えて逃げ切った。桜塚打線はエース久保に5安打に抑えられた。

http://www.asahi.com/articles/ASJ6J7S3QJ6JPTIL034.html