釜山という都市の、韓国近現代史における位置

下の項目の続きである。
表題に掲げたテーマを考えるのに最も適しているのは、おそらく民主公園であると思われる。ここについては、ネット上での紹介も少なからずあるので、まずはそちらをご覧いただきたい。
民主公園・釜山光復記念館(pusannavi.com)
忠魂塔(釜山でお昼を)
民主抗争記念館(釜山でお昼を)
独立記念館(釜山でお昼を)
釜山近代歴史館前の道路を少し西に行くと、「民主公園」と示した道路標識が見えるが、それを信じて歩いていこうとするとひどい目に遭うことになる*1。おとなしくここは標高差を考えて、上記のリンク先の案内に従ってバスかタクシーかを使うべきだろう。西面や釜山駅からなら43番のバスがたくさん出ている。

この民主公園あたりには「中央公園」「大庁公園」などいろいろな名前が冠されているが、おおむね同じエリアを指すものと考えればいい。中央図書館なども立地する中央公園の中に「民主公園」と呼ばれるエリアがあり、そこらへんが「大庁公園」とも呼ばれているのである。
とりあえず、ますは忠魂塔からいってみよう。

「とにかくデカい」というのが誰でも抱く第一印象だろう。この塔の下にあるドーム型の施設には、6.25動乱、いわゆる朝鮮戦争の戦没軍警9000位余の銘碑が奉安されている。



同じような機能を果たしている施設は他にもある。次に、釜山光復記念館を見てみよう。この建物の横にある石碑には「殉国先烈・愛国志士 位牌奉安所」とある。

屋内外の展示は、国外における独立運動や国内における3.1運動に関するものである。その展示の一角が、位牌奉安所となっている。



さらに、いわゆる「4.19革命」の犠牲者に対する慰霊碑と「英霊奉安所」という名の遺影奉安所がある。従来は龍頭山公園にあったものを、2007年にここへ移したものであるらしい。




さらにそこから階段を上がっていくと、民主公園のメイン施設である「民主抗争記念館」である。螺旋状の複雑な構造である上に、ホールや展示用の貸しスペースなども併設されたマルチユースな建物になっている。


中心部にあるモニュメントは、昔なんばにあったロケット広場のような据えられ方をしている。そして、その周囲の通路を歩いていったところに、常設展示スペースがある。

私が行ったときには受付のお姉さんが二人ほどいて、入場料200ウォンを支払った。ただ、外国人が来るとは想定していないらしく「パンフレットが韓国語しかないんですけど…」というようなことを言われた。その韓国語版のパンフをそのまま貰って中に入った。
上記のレポートからあまり変わっていない展示が多いと思われるが、若干は更新されているように感じた。「世界の民主主義と私」といった題目で、展示内容の普遍性を訴えている割りには、韓国語以外の説明はほとんどない点は、この民主公園全体に通じる傾向でもある。



そして最後に、この記念館の裏手にもう一つあるのが「大韓海峡戦勝碑」。朝鮮戦争当時の会戦の勝利を記念して、1988年に海軍が建立したものであるらしい。


さて、こうして民主公園の、その名にまつわると思える諸施設をぐるっとひと回りしてみて私の中に残ったのは、率直に言って、
「で?だから?」
という疑問ばかりであった。
ここの施設には確かに、それぞれ込められた意味や主張というものがあるだろう。けれども、それを束ねる何か、言葉を換えれば「何故それらが、釜山というこの都市に集結して在らねばならないのか」という点が、私にはどうにもうまく解せないのである。
例えば光復記念館。この地出身の殉国先烈・愛国志士がいるのはわかる。釜山でも3.1運動が燃え上がったのもわかる。しかし、それを「釜山の歴史」として徹底しているわけでもなく(それにしては中途半端である)、「韓国の歴史」として徹底しているわけでもない(それはそれでまた中途半端である)。
独立抗争記念館の常設展示が、釜山発の民主抗争を世界的・普遍的な価値につなげようとしているというその意図はわかる。4.19の犠牲者の慰霊施設をここに呼び寄せたのもその一環であろう。けれども、それらを挟み込むように位置する大小の忠魂塔と戦勝碑との関係はどうなっているのか。済州の4.3・光州の5.18を想起すれば明らかであるように、両者は簡単に並べて済ませられるような関係にはない。
けっきょく、最後まで私には「民主の釜山」というイメージが伝わってこないのである。それはおそらく、民主公園だけに帰せられるべきものではないだろう。
韓国近代史における釜山とは、やはりまず随一の港町であり、朝鮮戦争当時の苦難の象徴であるのではないか。その意味で、釜山という都市は、どのような価値を付与されるにしろ植民地時代と無関係には論じられないし、40階段が象徴的な意味を付与されて語り継がれてもいるのである。
そもそも、光州と金大中のペアと、釜山と金泳三のペアとを比較してみたとき、「民主」をお題に大喜利合戦をしたとしたら、勝負にならないのは目に見えているのではないだろうか。まして盧武鉉など論外であろう。
むろん、民主にまつわる重大な歴史的局面に釜山が登場しなかったわけではない。否、むしろ積極的に重大な役割を果たしたといってもよい。にもかかわらず、釜山は「民主の都市」かと問われれば、何だか違う気がしてしまうのである。
誰が悪いわけでもないが、実際そうなのである。おそらくこの民主公園の当初の志も、徐々に忘れられ、風化されていく流れに抗い続けるのは難しいだろう。
実際、忠魂塔の周囲に設置された噴水池は干上がったままであるし*2、光復記念館は事務室でアジョシが一人爆睡しているだけで展示エリアはほったらかしであった。4.19の遺影奉安堂と民主抗争記念館の常設展示にはそれでも人が配置されていたが、果たしてそれがどこまで維持できるか。それはたぶん、この公園の風化度合いを測る一つの目安となるだろう。

*1:やはり言うまでもなく、実際にやってみてしまったのである。

*2:こんな山のてっぺんでこれを維持しようと思えば大変であろう。維持のことを考えればこの施設は明らかに〈やりすぎ〉である。