眠れぬ夜のために、というよりも、起きれぬ朝のために

そもそも大学院生というのは、堅気のものではない。

内田樹センセが「文学」や「文学部」について次のように述べていることは、特に文系の「大学院生」にも、そのまま当てはまるように思う。

文学は「正業」ではない。

そして、それゆえに「正業とは何か?」ということを絶えず自問することを構造的に強いられている。

「自分がここでこんなことをしていることに意味はあるのか?」という切実な問いを抱え込んでいるということそれ自体が文学の手柄であると私は思っている。

文学も文芸批評も文学研究も文学部も、軒並みダメになったのは、文学にかかわる人間たちが自分たちの仕事を「正業」だと思い始めたからである。

文学部がダメになったのは、看板を「現代文化学部」とか「国際情報学部」とか「人間総合研究学部」とかつけかえると「正業らしく見えるんじゃないか」と思ったというような「浅はかさ」ゆえである。

文学はどう転んでも「正業」にはならない。

胸を張って「文学してます」と言えないという、この「疚しさ」が文学のたったひとつの「いいところ」なのである。

かつて文学が君子の必須であったのは、ヒエラルヒーの上層にいる人間には「自分はこんなところで、こんなことをしている資格がほんとうにあるのだろうか?」という切実な懐疑に囚われていることが必要だからである。

http://blog.tatsuru.com/2009/02/01_1014.php

したがって、大学院生であるという事実そのものがまず「疚しい」のであって、その疚しさを感じずに生きていられる院生などは、基本的に存在しないと思う*1

そうした「疚しさ」に立ち向かうために、院生ができることは差し当たり「研究」しかない。それはそれで院生である限りは続く苦闘と葛藤ではあるのだけど、とりあえず研究を進めることで、少しはこの「疚しさ」と立ち向かうことができる。

そのほとんど唯一の対抗手段もうまく機能しないとき、その人の心身は徐々に蝕まれていく。

目に見えて具体的な症状としては、夜が眠れなくなる。結果として朝が起きれなくなる。

朝が起きれなくなれば、一日のうち使える時間が短くなる。研究は余計にはかどらない。人並みの生活すらできない自分にもだんだん嫌気がさしてくる。


さて、どうしましょうかね。


もちろん、「早寝早起きする」ってことは大事ではある。けれどもそれ自体が原因なわけではない。研究がはかどって、学会報告も論文執筆も次々にはかどっていけば、その分、夜も安心して眠れるというものである。

「じゃあ研究を進めればいいのか?」と言えば、それがうまくいかないから悩んでいるんであって、「それが簡単に解決できるのなら、誰も苦労してないっての」という話である。

おそらく、これという脱出の方策はないのだろう。

誠実に、丁寧に、生きていくこと。どうにもならないことを手放すこと。他力を拒まないこと。そうした中から、何かが見えてくるまで待てるかどうか。


眠れず、起きれぬ妹たちのために。

*1:もし感じずに生きていられるとしたら、そのこと自体がより一層深刻な問題であるかも知れない。