盧武鉉前大統領死去

ニュース速報の第一報では滑落死と聞いたのだが、その後、「どうやら自殺である」という方向になっていった。
軽々しいコメントをしようとは思わないが、韓国の大統領というのが辛いものであることだけは間違いないようだ。

2009/05/23 09:52 KST
盧前大統領が死亡と警察が確認、事故か自殺か調査中

【金海23日聯合ニュース盧武鉉ノ・ムヒョン)前大統領が23日午前、死亡したことが確認された。慶南警察庁が明らかにした。
 警察によると、盧前大統領は午前6時40〜50分ごろ、秘書官1人とともに登山中に山から落ち、病院に救急搬送されたが、息を引き取った。頭部を大きく負傷していたという。

 警察は、盧前大統領が足を踏み外し落ちたのか、自殺を図ったのか、正確な経緯を調査中だ。

http://japanese.yonhapnews.co.kr/Politics2/2009/05/23/0900000000AJP20090523000100882.HTML

2009/05/23 11:31 KST
盧前大統領逝去、元秘書室長「遺書残し飛び降りた」

【ソウル23日聯合ニュース】文在寅(ムン・ジェイン)元青瓦台(大統領府)秘書室長は23日、「盧武鉉ノ・ムヒョン)前大統領は(自宅がある)慶尚南道金海市・ポンハ集落の裏山から飛び降り午前9時半ごろ亡くなった」と伝えた。遺体が安置された金海市梁山の釜山大学病院で会見したもの。家族に宛て簡単な遺書を残したという。
 文元秘書室長によると、盧前大統領は午前5時45分ごろに自宅を出て集落内の山に登り、午前6時40分ごろ岩から飛び降りたものとみられる。警護員1人が随行していたという。盧前大統領は午後8時13分ごろ病院に移送されたが、9時30分ごろ逝去した。


盧前大統領逝去の速報を見つめる人々=23日、ソウル(聯合ニュース

http://japanese.yonhapnews.co.kr/Politics2/2009/05/23/0900000000AJP20090523000300882.HTML

2009/05/23 15:04 KST
<盧前大統領逝去>遺書全文

【ソウル23日聯合ニュース】23日午前、登山中に岩から飛び降り亡くなった盧武鉉ノ・ムヒョン)前大統領は、慶尚南道金海市・ポンハ集落の自宅を出る30分ほど前にパソコンに遺書を残していた。最終保存日時は23日午前5時21分となっている。以下はその全文。

非常に多くの人に面倒をかけた。

わたしにより多くの人々が受けた苦痛は非常に大きい。この先、受ける苦痛も察することができない。

余生も他人に荷物となることしかない。

健康状態が良くなく、何もできない。本を読むことも、文字を書くこともできない。

あまり悲しむな。生と死はすべて自然のひとかけらではないか。

申し訳なく思うな。だれも恨むな。運命だ。

火葬してほしい。そして家の近くにごく小さい碑石をひとつだけ残せ。昔から考えていたことだ。

http://japanese.yonhapnews.co.kr/Politics2/2009/05/23/0900000000AJP20090523001300882.HTML

2009/05/23 15:28 KST
<盧前大統領逝去>波乱万丈だった栄辱の人生

【ソウル23日聯合ニュース】貧農の息子、労働現場の闘士から大統領へ、そして検察出頭と自殺――。満62歳で23日に他界した盧武鉉ノ・ムヒョン)前大統領の人生は、大韓民国民主化の息吹と悲喜が込められた「叙事詩」だった。現実と妥協しない独自の「原則」と地域主義に抗っては挫折した「所信」を武器に、最高権力の座まで上り詰めたが、退任後の短い人生は、歴代大統領のそれと同様、わびしいものだった。政治改革を叫び現実政治の壁に全身でぶつかったが、その「クリーンな政治」の叫びは、皮肉にも盧前大統領の名誉を墜落させ、悲惨な最期に向かわせる足かせとなった。

 人権弁護士として釜山で国会議員選挙に出馬、大統領に当選し就任するまで、盧前大統領は韓国政治の異端児だった。湖南に地域基盤を置く民主党の嶺南出身大統領候補、国会弾劾訴追案が議決され野党に連合政府を提案した憲政史上初の大統領と、その政治経歴は、まさに「型破り」と「記録」そのものだった。

 盧前大統領は1946年、慶尚南道金海市進永邑ポンハの集落で三男二女の末っ子として生まれた。幼いころから学業に頭角を現し非凡さを見せたが、貧しさのため大学進学を断念し、釜山商業高校に進学した。しかし、貧しさから脱し世に大義を示したいという野望が、高校卒業後、平凡な青年だった盧前大統領を法曹界へと導く。苦杯をなめること数回、30歳で司法試験に合格し判事の道を歩み始めるが、「適正に会わない」と7カ月で辞め、弁護士に転身した。

 その後、人権弁護士としていばらの道を進み、疎外労働者や学生の味方となり、軍事政権に抵抗。1987年9月に催涙弾で死亡した大宇造船労働者の事件を担当し、その名が世間に知られるようになった。当時の金泳三(キム・ヨンサム)統一民主党総裁の勧めで1988年に第13代国会議員総選挙に出馬、政界に進出。聴聞会での整然とした論理とするどい質問ぶりは、テレビ中継を視聴していた国民を熱狂させ、「聴聞会のスター」となった。


国会議員として民主化闘争を展開していた当時の盧武鉉氏=(聯合ニュース

 1990年の3党合党で金泳三総裁の下を離れると、地域主義の壁に阻まれ落選を重ね、非主流政治家となる。同時に、嶺南出身ながら金大中(キム・デジュン)元大統領と志を同じくし、その「所信」が大統領の道に導く最大の政治的財産となった。1998年の補欠選挙では金大中の旗印の下、ソウル・鍾路選挙区で当選を果たすが、2000年の統一地方総選挙では地域主義克服を掲げ故郷の釜山から出馬し、ハンナラ党候補に敗れる。しかし、この選挙は「大統領・盧武鉉」の誕生に向けた重要な敗北だった。

 その無謀さは、「愚か者盧武鉉」という名でインターネットを介して広まり、一般大衆、特に、嶺南、湖南地域主義に嫌気が差した有権者の心に浸透し、2002年大統領選挙に「盧風」を巻き起こす起爆剤となった。圧倒的な支持を得て慶尚南道出身候補者として立ち、当時、国民統合21の代表だった鄭夢準チョン・モンジュン)氏が候補者一本化を撤回する波乱があったが、絶体絶命の危機に立たされながらも正面突破を選択し、青瓦台入りの「奇跡」を成し遂げた。

 政治家・盧武鉉の勝負師的な気質は、大統領在任中も、旧政治の反動と相対し威力を遺憾なく発揮した。2004年3月には開かれたウリ党支持発言などで選挙法違反の疑いをかけられ、憲政史上初めて大統領弾劾訴追案を発議されるが、これがかえって大きな逆風を呼び起こす結果となる。第3党だったウリ党ハンナラ党の議会独走にブレーキをかけ、過半数議席を確保するという第2の奇跡を起こした。


大統領在任中、釜山・アジア太平洋経済協力会議(APEC)で共同宣言文を発表する姿=(聯合ニュース

 政治、経済、対北朝鮮関係など、ほぼ韓国社会のすべての分野で、盧前大統領の無謀に見える政治実験はとどまるところを知らなかった。連日のように続く青瓦台発の衝撃発言は、次第に民心の離反とウリ党の支持率急落を招き、国政乱脈を引き起こす。度重なる再選・補欠選挙での敗北で過半数議席を失ったウリ党は、2006年の地方選挙でハンナラ党に惨敗。盧前大統領は事実上、国政運営の動力を喪失し、早期レームダックに陥った。ハンナラ党に連合政党を提案する勝負手を投げたが、実現はならなかった。急進的改革政策で社会全般に疲労感が漂う中、アパート価格急騰や北朝鮮の核実験などが重なり、与党内部でも盧前大統領の離党を求める声が上がるなど、政治的よりどころも失う。政局打開策として、大統領制を再選可能な1期4年制に改めようという最後のカードを切るが、やはりハンナラ党の拒否で放棄した。

 代わりに、南北和解協力関係の定立にまい進し、平壌を訪れ金正日キム・ジョンイル)総書記と南北首脳会談を行ったことは、対北朝鮮関係における大きな業績として残った。

 大統領退任後は、朴淵次(パク・ヨンチャ)ロビー疑惑で、唯一の資産だった道徳性を失墜させ、「死地」に追い込まれた。退任前、口癖のように「農村に戻り、子どもたちに希望を与える暮らしがしたい」と約束していたが、歴代大統領が歩んだような屈曲を避けることはできなかった。人生行路をともにした進歩陣営の政治家らや、実兄の建平(ゴンピョン)氏、夫人までが収賄容疑で相次ぎ検察の事情聴取を受けるという現実のなかで、苦しみの人生よりも政治家・盧武鉉としての後代の評価を選んだのかもしれない。


朴淵次ロビー事件で聴取を受けるため私邸を出る盧武鉉氏。4月30日撮影=(聯合ニュース

http://japanese.yonhapnews.co.kr/Politics2/2009/05/23/0900000000AJP20090523001200882.HTML

2009/05/23 15:43 KST
盧武鉉前大統領年譜

1946年8月6日(陰暦) 慶尚南道金海市進永邑で出生

1966年2月 釜山商業高校卒業(第53期)

1973年1月 権良淑(クォン・ヤンスク)夫人と結婚

1975年3月 第17回司法考試(司法試験)合格

1977年9月 大田地方法院(地方裁判所)判事

1978年5月 弁護士開業

1981年10月 釜林事件弁論以降、人権弁護士として活動開始

1987年9月 大宇造船事件で拘束、弁護士業務停止処分

1988年4月 第13代国会議員選挙出馬(統一民主党、釜山東区)、当選

1988年12月 第5共和国不正調査特別委員会委員として活動、聴聞会スターに

1991年9月 新民党・民主党の野党勢力統合主導(統合交渉代表)、統合民主党報道官

1992年3月 第14代国会議員選挙出馬(民主党、釜山東区)、落選

1993年3月 統合民主党最年少最高委員

1995年6月 釜山市長選挙出馬

1996年4月 第15代国会議員選挙出馬(民主党、ソウル鍾路)、落選

1996年11月 国民統合推進会議活動

1997年11月 新政治国民会議副総裁

1998年7月 第15代鍾路補欠選挙出馬(国民会議)、当選

2000年4月 第16代国会議員選挙出馬(新千年民主党、釜山・北江西乙)、落選

2000年8月 海洋水産部長官(〜2001年3月)

2001年9月 釜山後援会で大統領選挙挑戦を宣言

2002年4月 国民参加型予備選挙民主党大統領候補に選出

2002年11月 鄭夢準チョン・モンジュン)国民統合21代表と大統領候補一本化

2002年12月19日 第16代大統領当選

2003年2月25日 第16代大統領就任

2004年3月9日 ハンナラ党民主党が弾劾訴追案を国会提出

2004年3月12日 国会が弾劾訴追案可決

2004年5月14日 憲法裁判所が弾劾訴追案棄却

2005年7月28日 ハンナラ党主導の大連政(政党連合)構想提案

2007年10月3〜4日 北朝鮮平壌で南北首脳会談開催

2008年2月24日 大統領任期終了

2008年12月4日 実兄・盧建平(ノ・ゴンピョン)氏拘束

2008年12月12日 後援者・朴淵次(パク・ヨンチャ)泰光実業会長拘束

2009年3月23日 「朴淵次ロビー事件」関与の秋富吉(チュ・ブギル)元青瓦台広報企画秘書官拘束

2009年4月7日 ウェブサイトに朴淵次ロビー事件関連の謝罪文掲載

2009年4月10日 朴淵次ロビー事件で姪(めい)婿ヨン・チョルホ氏事情聴取

2009年4月11日 朴淵次ロビー事件で権良淑夫人事情聴取

2009年4月12日 ウェブサイトに「解明と防御が必要だ」と文章掲載、盧建昊(ノ・ゴンホ)氏事情聴取

2009年4月26日 検察から出頭要請

2009年4月30日 検察に出頭、事情聴取

2009年5月23日 自宅裏山から投身、逝去

http://japanese.yonhapnews.co.kr/Politics2/2009/05/23/0900000000AJP20090523001400882.HTML

2009/05/23 16:55 KST
<盧前大統領逝去>本人への捜査打ち切り、検察が決定

【ソウル23日聯合ニュース】林采珍(イム・チェジン)検察総長は23日、盧武鉉ノ・ムヒョン)前大統領の逝去を受け緊急幹部会議を開き、盧前大統領に対する捜査打ち切りを決めた。

 大検察庁最高検察庁に相当)中央捜査部は、朴淵次(パク・ヨンチャ)前泰光実業会長が国政全般に影響力のあった盧前大統領のバックアップを受けようと、その家族に「包括的わいろ」640万ドル(約6億円)を渡し、盧前大統領もこれを知っていたとみて捜査を進めてきた。検察は盧前大統領だけを被疑者、権良淑(クォン・ヤンスク)夫人と長男の建昊(ゴンホ)氏、長女の静妍(ジョンヨン)氏らは参考人と線引きしていただけに、640万ドル全体に対する捜査は中断される見通しだ。

 法務部の金慶漢(キム・ギョンハン)長官も同日に声明を出し、哀悼の意を示すとともに「現在進めている盧前大統領に関する捜査は終了するものと承知している」と明らかにした。


盧前大統領の逝去は号外で報じられた=23日、ソウル(聯合ニュース

http://japanese.yonhapnews.co.kr/Politics2/2009/05/23/0900000000AJP20090523001700882.HTML