南相馬・小高の3.11
今年の3月11日、南相馬市小高区にいました。外形的にはほとんど日常のままでありながら、そこに大きな裂け目が入ってしまったようなあの光景は何だったのか。少しだけその背景が見えたような気がします。
3.11の当日でしたが、金性寺には人気がまったくありませんでした。
それもまた、戻るに戻れない、やむを得ないことなのでしょう。
2013年4月18日
避難先に基盤、戻れない 帰還した児童27% 南相馬・小高区「立ち入り可」1年
バレーボールのチームメートに囲まれ、笑顔の斉藤希乃香ちゃん(右端)とひまりちゃん(右から2番目)=千葉県佐倉市東京電力福島第一原発事故に伴う避難指示区域が福島県南相馬市で再編されてから16日で1年たった。立ち入りできる地域は広がったが、避難先の生活から離れられない被災市民も多く、元のコミュニティーが戻るのは難しくなりつつある。
南相馬市から約220キロ離れた千葉県佐倉市の小学校体育館。近くの同県成田市に避難する斉藤希乃香(ののか)ちゃん(9)、ひまりちゃん(7)姉妹は6日、地元の子どもに交じってバレーボールを追っていた。練習を終えると、チームメートとケラケラ笑い合った。
2人は昨年、地元のチームに入った。母の一美さん(35)は「新潟、埼玉と避難したが、希乃香が一時、暴れるようになった。事故前からやっていたバレーボールをここで始めたら、なくなった」と振り返る。
■夫の仕事で移住
一美さん一家7人は事故前、南相馬市小高区に住んでいた。同市の隣の福島県浪江町にあった夫の勤務先が原発事故で千葉県内に移ったため、一昨年の夏から成田市で暮らす。姉妹も市内の小学校へ通う。
放射能の不安もあるが、避難を続ける大きな理由は、ここでの生活になじんでしまったからだ。「子どもたちが楽しそうに学校へ通うのが一番。夫の勤務先が浪江町に戻っても当面、帰る気はない」。そう話す一美さん自身にも、貴重な生活情報を得られる母親同士の付き合いができた。
小高区で食堂を経営していた掃部関(かもんぜき)豊さん(46)は家族6人で山梨県甲斐市に避難し、新たな職も得た。被災した食堂は片付けた。「食堂を再開したい。が、安定している今を捨てて戻っても、家族を養えない」
■再開事業所1割
南相馬市は避難指示区域となった11市町村で最も人口が多い。昨年4月に他の2市村とともに再編のトップを切った。
原発から20キロ圏内の警戒区域だった小高区は、放射線量に応じて三つの区域に再編された。ほとんどの地域が、宿泊できないものの立ち入りは自由な避難指示解除準備区域と居住制限区域になった。先月末から今月にかけ、区役所や信用金庫の支店、小高郵便局が再開した。
だが、震災前にあった約500の事業所のうち、再開したのは製造業を中心に40事業所だ。
元は小高区内にあり、いまは区外の仮設校舎で授業を続ける4小学校の児童帰還率は27%を切る。希乃香ちゃんが震災前に入っていた地元バレーボールチームのメンバーは散りぢりになった。
市全体では、この1年間で避難していた2千人余りが市内に戻った。新たに転入した人を含め、約4万7500人の市民が市内で暮らすようになった。だが事故前の約7万1千人には遠い。国が来年3月末までに終える計画の除染は、除染で生じる廃棄物の仮置き場設置が難航し、つまずいている。市道や下水道の復旧も進まない。
一美さんは「故郷に戻りたいのは当たり前。でも、戻っても地元はバラバラ。子どもたちに、もう負担をかけたくない」と話す。先行きが見通しづらい故郷の生活に加え、避難生活が2年を超えた重みが、帰還への思いを妨げる。
(佐々木達也)
http://digital.asahi.com/articles/TKY201304170885.html?ref=comkiji_txt_end_s_kjid_TKY201304170885