埋立地には神社仏閣がない、ということを先日振り返ったわけですが、これは別の言い方をすれば「人智を超えた超越の要素を受け入れる余地がない」ということでもあります。
計画通りの埋め立てでできた土地に、合理的な利用計画を立て、その計画通りに組み上げられた都市には、人間のコントロールを超えるものが存在する隙間がありません。でも実際、それは存在する。身の置き場がないだけです。
その隙間を受け持つ施設として死を取り扱う墓地などを先に見たのですが、もう一つ、そのことを思い起こさせたのが、浦安の埋め立て地に立つ大学でした。
市営墓地公園から歩いて行ける、海からも遠くないところにあるのが、了徳寺大学。実際に見るまで仏教系かと思っていたのですが、医療法人を母体とした大学で、宗教的な背景はないようです。
医療系の1学部3学科で構成された小規模大学ですので、体育館を除けば校舎は1棟にまとめられています。最上階の学生食堂は見晴らし最高らしいのですが、残念ながら一般利用はできないとのことです。
この了徳寺大学の裏手には、明海中学校という学校があります。ただし、新浦安にあるもう一つの大学・明海大学と関係があるわけではありません。中学校は「あけみ」と読む浦安市立の公立校、大学は私立の「めいかい」大学です。
もともとこのあたりは「明海(あけみ)」という町名が付けられています。埼玉で城西歯科大学という名前だったのが、ここにキャンパスを開いたのを機に、その地名を取って大学名としたようです。
こちらのキャンパスは4学部を擁していることもあって、校舎が建てこんでいてそれなりの規模なのですが、敷地外部との仕切りが目立たず、校舎の裏手に広大な原っぱが広がっているため、全体としての開放感はあります。
どちらの大学も、平日の昼休み頃に訪れたこともあってか、学生も多く見かけて活気のある雰囲気が感じられました。
もちろん例外は多数あるのですが、それでも多くの人にとって、小学校・中学校・高校は生まれ住んだ地元の学校に通うものであり、大学になって初めて(本意であるかどうかはともかく)自身の選択によっては故郷を離れることになります。
大学は、その土地の外部から多くの人を集め、一定の年月をそこで共有させ、その土地の外部へとまた多くの人を送り出していく、そういう機能を持っているわけです。その土地に焦点を当てれば、それはコントロールも予測もできない要素を持ちこむことにほかならない。
つまり、どこから来たのかよくわからないような若者を多数集めて、どうなっていくかわからない将来に向けて送り出す大学は、計画通りに築かれた埋立地の物足りなさを何がしか埋める存在であるのかもしれないなー、と思った次第です。
いやすみません、ただの思い付きです。