沖縄慰霊の日に

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沖縄、きょう慰霊の日 戦没者のみ霊を慰め、恒久平和願う
2017年6月23日 06:00

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沖縄戦などの犠牲者の名前が刻まれた「平和の礎」の前で手を合わせる遺族ら=22日午後6時25分ごろ、糸満市摩文仁平和祈念公園

 沖縄は23日、「慰霊の日」を迎えた。20万人余の尊い命が失われた沖縄戦から72年がたった。糸満市摩文仁平和祈念公園では午前11時50分から沖縄全戦没者追悼式が開かれ、戦没者のみ霊を慰め、世界の恒久平和を希求する。式には安倍晋三首相、関係閣僚、衆参両院議長らも参加する。

 追悼式では宮古高校3年の上原愛音(ねね)さん(17)が「平和の詩」に選ばれた「誓い~私たちのおばあに寄せて」を朗読する。翁長雄志知事は慰霊の日に合わせて「『命どぅ宝』という平和を願う沖縄のこころを世界に発信し、平和な未来を築いていく」との知事メッセージを出した。「平和の礎」には本年度の追加刻銘を含め24万1468人の名前が刻まれている。

http://ryukyushimpo.jp/news/entry-519898.html

社説[朝鮮人戦没者刻銘]平和の礎は未完である
2017年6月22日 07:55

 糸満市摩文仁の「平和の礎」に、今年度、新たに54人の戦没者が追加刻銘された。刻銘者総数は24万1468人。

 追加刻銘された54人の中には朝鮮半島出身者(韓国籍)15人が含まれている。今回の追加分を含め、「平和の礎」に刻まれた朝鮮半島出身戦没者の数は462人となった。

 日本の植民地だった朝鮮半島から、戦争中、多くの人たちが沖縄に連行された。

 男性は「軍夫」として、壕掘りや資材調達、飛行場建設などに従事させられ、女性は日本軍の「慰安婦」として、県内各地に設置された慰安所に配置された。

 今回の15人という追加刻銘数は、遺族の申し出を受けて、NPO法人沖縄恨之碑の会など日韓両国の支援団体が乏しい資料や証言を発掘し、県や県議会に働きかけ、ようやくたどり着くことのできた犠牲者の数である。

 「462人」という朝鮮半島出身者の刻銘数が沖縄戦における犠牲の実際を反映していないのはあきらかである。 塗炭の苦しみを味わいながら異郷の地で犠牲になった人々は、「帝国臣民」として軍務に従事した。それなのになぜ、犠牲者の実数が把握できないのだろうか。

 刻銘された15人のうち2人は、特設水上勤務隊第104中隊に所属していたが、2人が沖縄戦で死亡したことを証明する公的記録はなかったという。軍属なのになぜ公的記録がなかったのだろうか。

 沖縄戦が「現在進行形」であるように、「平和の礎」も未完である。不断の働きかけが重要だ。

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 1952年、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立を回復した。その際、かつて日本の植民地であった台湾や朝鮮半島など旧植民地出身者は国籍を選択する権利が与えられなかった。

 講和後に真っ先に日本政府が取り組んだのは、遺族等援護法の制定だった。戦闘に参加した戦没者の遺族に対しては、同法に基づいて毎年、遺族年金が支給されることになった。

 だが、旧植民地出身者は、国籍条項が壁になって対象から除外された。帝国臣民として軍務に従事していたにもかかわらず、日本国籍をもつ軍人・軍属と旧植民地出身者の間には理不尽な処遇の隔たりがあった。

 不平等や不合理が是正されたのは、2001年に「平和条約国籍離脱者のための弔慰金等支給法」が施行されてからである。しかし、それでもなお、日本人遺族と比べると、その差はあまりにも大きい。

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 米軍に占領され、直接統治された沖縄では戦争直後、日本政府による復興事業は行われず、戦災調査も実施されなかった。

 日本が講和条約によって植民地朝鮮を放棄したことによって、かつて「帝国臣民」だった朝鮮の人々とも完全に関係が断ち切られ、日本人の中に加害者としての意識が育つことがなかった。

 台湾・朝鮮・沖縄は、冷戦時代、米ソ、米中対立の最前線に位置した。「平和の礎」はそのような過去をも引きずっている。

http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/104606

okinawamindan.org

慰霊の日だの平和の礎だのいう以前に、いまだに沖縄は未踏の地なので、そろそろええ加減、行っておきたいなと思っています。何年越しの話だかもう数えてもいませんけど。

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