日韓関係とは別のレベルの日韓関係を担う人々

中日新聞の滋賀版で連載されている記事だそうです。

滋賀県は県紙と呼べる新聞社がありませんので、これがいちばん地域密着型の新聞メディアだと思います。でも、その範囲でのみ読まれるにはもったいないですよこれ。

ここにあるのは、何と言ったらいいのかなあ、いわゆる日韓関係とは別のレベルの、顔が見える、顔を突き合わせた関係、とでも言えばいいのですかねえ。別のレベルにあるものなので、日韓関係改善の手段として動員することは難しい。ただ、別の見方をすれば、日韓関係がどうであれ、それとは単純に連動しない何ものか、だとも言えます。

なお、「光云大学校」と言えば「飛馬タイガー」です。異論はあってもいいですが、受け入れはしません。

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ryuisaka.tistory.com

2019年9月17日
誠信の交わり 隣国への思い(1) 学生から「反日」感じず
◆韓国に留学していた県立大生 市原萌果さん(21)

f:id:bluetears_osaka:20191008135332j:plain:right 八月まで一年間、ソウル市内の光云(クァンウン)大学に留学しました。日韓の政府間の対立が強まった時期で「一度や二度は嫌なことを言われるかな」と少し不安がありましたが、実際にはそんなことは全くなかった。むしろ、「政治的な対立は気にしないで」「留学に来てくれてありがとう。日本人のイメージが変わった」と気遣ってくれる友達が多かったです。

 韓国に興味を持ったのは中学生の時。少女時代など、K-POPアイドルの洗練された雰囲気や外国語も話せるかっこよさに惹(ひ)かれ、独学で韓国語の勉強を始めました。

 留学中は、日韓関係論など日本に関わる科目を受講し、領土問題や慰安婦問題などについても韓国の学生たちと一緒に学びました。学生は日本の政治には批判的な人が多いですが、日本のテレビで言われている「日本人が嫌い」「反日」というような感情は全くない。逆に漫画やドラマ、音楽など日本文化が人気で、簡単な日本語を話せる学生の多さにも驚きました。

 日韓は、漢字語を多く使う、年上を重んじる、情に厚いなど、文化的によく似ていて、分かり合えることが多いはず。今の歴史問題については、相手の立場に立って考えることが大事だと思います。日本では「日本が韓国の近代化を助けた」という主張もありますが、逆の立場でも本当に同じことを言えるのでしょうか。事情をよく知らずに「韓国がおかしい」と偏見で決め付けるのではなく、植民地支配をされた側の立場も考えて、両国が仲良くなってほしいです。(森田真奈子)

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 日韓の政府間関係が戦後最悪と言われる状況が続いている。近江出身で江戸時代の朝鮮との外交を支えた儒学者雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)は、相手の歴史や文化などを理解し、尊重する「誠信の交わり」を説いた。渡来人による文化の伝達や朝鮮通信使の歴史など、朝鮮半島との縁が深い滋賀から、関係改善を願う市民らの思いを随時、紹介する。

https://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20190917/CK2019091702000300.html

2019年9月19日
誠信の交わり 隣国への思い(2) 平和の使節 温かく歓待
朝鮮通信使を研究 京都造形芸術大客員教授 仲尾宏さん(83)

f:id:bluetears_osaka:20191008135449j:plain:right 四十年以上にわたって朝鮮通信使の研究を続けています。江戸時代は鎖国ではなく、隣国と友好関係を築いていたのに、そうした歴史が学校教育で全く教えられていない驚きが、研究の原点でした。

 通信使が伝えるのは、江戸時代には、豊臣秀吉朝鮮出兵の反省から「近い国と対等な関係で、仲良くしないといけない。他国を侵略してはいけない」という外交方針が、徳川政権にあったということです。

 二〇一七年のユネスコ「世界の記憶」に朝鮮通信使に関する資料が登録された時には、日本側の学術委員長として資料の申請に携わりました。韓国側の学術委員たちと信頼関係に基づいて粘り強く議論を重ね、全三百三十三点の登録につなげました。

 通信使は、現在の守山、彦根市で宿泊、大津、近江八幡市で休憩し、地元の人と漢詩などを通して交流した記録が残っています。「世界の記憶」には雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)の関連資料三十六点と、近江八幡市に残る通信使の詩書など二点、琵琶湖岸を歩く通信使の絵図一点が登録されました。

 県内の皆さんには、そうした資料を通して、異国の人々を平和の使節として温かく迎えた当時の雰囲気を味わってほしい。そして今こそ「争わず、偽らず、真実を以(もっ)って交わる」との通信使を支えた精神を思い出し、文化交流をしていくべきです。近く「世界の記憶」登録時の韓国側の学術委員と協力して、交流促進を呼び掛けるつもりです。(森田真奈子)

https://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20190919/CK2019091902000299.html

2019年9月21日
誠信の交わり 隣国への思い(3) 対話のきっかけにアートを
◆近代史をテーマに作品制作 成安造形大非常勤講師 井上裕加里さん(28)

f:id:bluetears_osaka:20191008135604j:plain:right 東アジアの近代史をテーマに映像や写真の現代アート作品を制作したり、日韓の若手アーティストによる交流展「韓日芸術通信」に出品したりしています。

 最近は、植民地期に結婚などで日本から朝鮮に渡り今でも韓国で暮らす女性と、逆に朝鮮から日本に渡り今も日本で暮らす女性の双方にお話を聞き、映像作品をつくりました。

 韓国の施設で暮らす九十七歳の日本人女性は、韓国では日本人として差別を受け、日本の実家からは「朝鮮人と結婚した」と非難され、どちらにも居場所がなかった。話を聞いた時には「今でも故郷に帰りたい」と泣きながら手を握られました。暴力的な近代史の中で痛みを負った人たちがいたことを作品を通じて提示できればと思っています。

 この九月にも、韓国・清州市で交流展に参加しました。日韓は空気を読んだり、相手を傷つけないように配慮したりとコミュニケーションの方法が似ているので、交流展をやっても、外国の人と展示をしているという感覚がない。一方で、似ているからこそ、話をしなくても分かり合えると思い過ぎている部分があり、そういう無意識が国レベルの衝突にもつながっている気がします。

 アートは非言語でお互いを知ることができ、対話のきっかけを作れると思っています。特に韓国はアートが社会に浸透していて、交流展には親子連れも多く見に来てくれました。草の根の交流を絶やさないことで、対話が深まってほしいです。(森田真奈子)

https://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20190921/CK2019092102000271.html

2019年9月25日
誠信の交わり 隣国への思い(4) 草の根交流 継続が大切
雨森芳洲庵元館長 平井茂彦さん(74)

f:id:bluetears_osaka:20191008135714j:plain:right 長浜市高月町出身で、江戸時代に対馬藩(現長崎県対馬市)で朝鮮国との外交実務を担った儒者雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)の教えに「誠信の交わり」があります。藩主のために朝鮮国と付き合う心得をまとめた著書「交隣提醒(こうりんていせい)」にある言葉です。

 誠信とは「まことの心」。互いに欺かず、争わず、真実をもって交わることを指します。芳洲先生は二十代半ばで対馬に渡りました。本を書いたのは六十歳ごろ。長年の経験をもとにした言葉は説得力がありますが、現在の日韓関係では両国とも、この姿勢を失っているようで残念です。

 芳洲先生は、朝鮮国の使節が江戸を訪問する朝鮮通信使にも同行しました。朝鮮側の記録「海游録(かいゆうろく)」には、幕府と朝鮮国の板挟みになりながらも、友好のために奔走する芳洲先生の姿が記されています。

 外交実務者は大変でしょうが、通信使が送られた江戸時代の約二百年間、日朝間で大きな争いはなかった。芳洲先生は通訳として広く知られていますが、平和と友好に尽くしたことはまだまだ。今、その教えを学ぶべきではないでしょうか。

 七月に韓国の大学生二十五人が、地元の顕彰施設・雨森芳洲庵を訪ねてくれました。通信使の道のりをたどる巨大すごろくなどで盛り上がり、聞けば「日本と対立姿勢を取るのは一部の人だけ」と言います。国家間関係の良しあしにかかわらず、草の根の交流を続けるのが大切だと考えます。(川添智史)

https://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20190925/CK2019092502000296.html

2019年9月27日
誠信の交わり 隣国への思い(5) 当事者の声聞いて議論を
◆朝鮮近代史を研究 県立大准教授 河かおるさん(47)

f:id:bluetears_osaka:20191008135834j:plain:right 朝鮮近代史が専門で、植民地期の女性史や県内の在日韓国・朝鮮人の歴史を研究しています。

 徴用工問題をきっかけに深まる日韓の対立の背景には、冷戦体制の終焉(しゅうえん)があると思います。日本の「リベラル」陣営では、戦後日本が憲法九条を守り、平和だったという認識が強いですがその「平和」は誰の不幸と隣り合わせだったのでしょうか。冷戦の最前線で軍事基地となった韓国や沖縄の犠牲の上に、日本の「平和」は成り立っていました。

 今回問題になっている一九六五年の日韓請求権協定も、軍事独裁政権だった韓国と、冷戦体制の中で甘い汁を吸っていた日本の間に結ばれたもの。協定が絶対のように言われていますが、独裁政権の下で被害者の声が十分反映されなかった協定が、冷戦体制が終わった今なお本当に良いものなのか、根本的に見直すべきだと思います。

 昔の法秩序で救済されなかった人を、後から救済するのは普通にあること。最近では被害者中心の視点から、旧優生保護法の下で不妊手術を強制させられた人を救済する法律が成立しました。

 一方、徴用工問題では原告がどんな人でどんな不条理を訴えているのか、全く報道されていない。当事者の声を聞かずに法律論ばかり議論しています。

 特に県内では戦前、鉱山や琵琶湖内湖の干拓、セメント工場などで、多くの朝鮮人労働者が働かされました。今の暮らしが誰の犠牲の上に成り立っているのかを考え、不条理を訴える声に耳を傾けることが、関係改善に必要だと思います。(森田真奈子)

https://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20190927/CK2019092702000307.html

2019年10月1日
誠信の交わり 隣国への思い(6) 東アジアは運命共同体
◆渡来人歴史館館長 河炳俊さん(71)

f:id:bluetears_osaka:20191008140553j:plain:right 主に四~七世紀ごろに大陸から渡ってきた渡来人と、近江や日本との関係を紹介する渡来人歴史館(大津市)を二〇〇六年に開設し、館長を務めています。

 県内には朝鮮半島と共通した古墳の埋葬品が残るなど、古墳時代から近江と朝鮮のつながりは盛んでした。特に大勢の渡来人が近江に来たのは、六六〇年代に百済が滅亡した後。日野町の鬼室神社にまつられている鬼室集斯(しゅうし)をはじめ、蒲生郡には六六九年に百済の人々約七百人が移住した記録が残っています。鬼室集斯は大津京天智天皇に仕え、学識頭(ふみのつかさのかみ)として日本の官吏養成に努めました。

 ほかにも、石山寺大津市)を創建した良弁や金剛輪寺愛荘町)を開いた行基百済系といわれるなど、近江の仏教文化百済の影響を強く受けています。日本文化は独自に形成されたわけではなく、朝鮮半島などの知識や技術の影響を受けながら発達しました。

 最近は近代の不幸な歴史ばかりが注目され、両国がもめている。現状については、双方に問題があると思います。日本で慰安婦や徴用工の歴史を否定する人がいるのはおかしいし、韓国も一九六五年の請求権協定でしっかり対応しておけば今になって問題にならなかった。

 近代史の中で生まれた“渡来人”である在日コリアンは、日本を母国、韓国を祖国と思っていて、両国がパートナーであってほしいと願っています。温故知新の言葉の通り、良かった時代も悪かった時代も歴史を学び、東アジアは運命共同体だという思いを持ってほしいです。(森田真奈子)

https://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20191001/CK2019100102000299.html

2019年10月5日
誠信の交わり 隣国への思い(7) 相手の良いところを見て
◆県立高校などで韓国語を教える 洪歳熙さん(40)

f:id:bluetears_osaka:20191008140659j:plain:right ソウル出身で、大学で日本語を学んだ後、音楽活動をするため日本に渡りました。二〇〇四年から滋賀県に住み、学校や市民講座で韓国語を教えたり、通訳をしたりしています。

 三年前から韓国語の授業をしている県立高校では、高校生の韓国への関心の高まりを感じます。三年前は受講者が三十五人ぐらいでしたが、今年は八十人になりました。以前はK-POPや食文化に興味がある女の子が中心でしたが、今は男の子も多い。男子生徒の間では、韓国のダンスなどが人気。生徒たちは「韓国が好きなのに、なんで政治家はけんかしてるのか分からない」と困惑しています。

 身近なところで「嫌韓」を感じることはありませんが、日韓のメディアとも一部の極端な主張を大きく取り上げ対立をあおっていて残念です。韓国語には「易地思之(ヨクジサジ)(立場を変えて考える)」という言葉があります。メディアでは、現地で見たわけでもないのに、「韓国人は反日だ」などと悪い情報を広める人がいる。相手に逆のことをされたら、どんな気持ちになるでしょうか。

 植民地支配の歴史についても、韓国の立場では被害者としてなかなか忘れられることではないことを、理解してほしいです。子どもが一年間だけでもいじめられたら、一生傷つくのと同じことだと思います。

 日韓は二千年の付き合いの中で、百済時代から活発な交流がありました。関係が悪かった時代は百年もない。相手の良さを見つけるのは難しいけれど、弱点を見つけるのは簡単です。若い人たちが互いの良いところを見るようになれば、協力できる関係になると信じています。 (森田真奈子)

https://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20191005/CK2019100502000299.html

今のところはここまでですけど、まだ続いていくみたいですね。