さらに承前・フレンジャーと死の哲学

もう少し言葉を継いでみたい。

例えば、遠距離恋愛の辛いところはどこらへんだろうか。

ここにいて欲しいのに、ここにいないこと。ここにいないのに、そこにいること。

ここにいないから、空を見上げる。君のいる場所につながる空を見上げる。

その空の向こうに君はいる。いつだってここにいてくれるはずの、いつだって駆けつけてきてくれるはずの君が、そこにはいるのに、ここにはいない。

だから寂しくなる。辛くなる。


ここで少しだけ、状況をずらしてみよう。

ここにいて欲しいのに、ここにいない。ここにいないだけでなく、今やどこにもいない。

ここにいないから、空を見上げる。君のいる世界につながる空を見上げる。

その空の向こうに君はいる。いつだってここにいてくれるはずの、いつだって駆けつけてきてくれるはずの君が、そこにはいるのに、この世界のどこにももはやいない。

どちらにしても寂しく、辛いことであるかも知れない。

けれども、やはり違うところがある。

後者の「不在」は、反転するのである。それが、田辺元上原専禄の「死の哲学」につながる境地である。

どうやらまだ、継がねばならぬ言葉が残っているようだ。