金大中元大統領逝去

聯合ニュースはここに特設ページを作っている。
http://japanese.yonhapnews.co.kr/Politics2/0901000001.html

とても一言で感慨を言い表せるようなことではないのだが、やはり一つの時代の区切りを告げる知らせではある。
おそらく、多くの人が様々に多くのことを感じていることだろう。

2009/08/18 15:31 KST
金大中元大統領逝去>波乱万丈の生涯終える

【ソウル18日聯合ニュース大韓民国第15代大統領を務めた金大中(キム・デジュン)元大統領が、18日午後1時42分に逝去した。

 金元大統領は先月13日に肺炎のため延世大学新村セブランス病院に入院し、集中治療室で治療を受けていた。症状が好転し、一度は一般病室に移されたが、再び肺塞栓(そくせん)を発症、人工呼吸器を装着したまま治療を受けていた。臨終は李姫鎬(イ・ヒホ)夫人と3人の息子夫婦ら家族、側近がみとった。

 金元大統領は1925年、全羅南道・新安の農家で4男2女の二男として生まれた。木浦商業高校卒業。木浦日報社長を経て、民主党報道官だった1963年に木浦から第6代国会議員として初当選を果たし、第7代、8代、13代、14代国会議員を務めた。

 1971年の大統領選挙に新民党候補として出馬したが、共和党の朴正熙(パク・チョンヒ)候補に惜敗したのに次ぎ、1987年と1992年にも落選した。1997年、ハンナラ党の李会昌(イ・フェチャン)候補を退け、第15代大統領に当選した。


1998年2月、大統領就任式での故金大中大統領と李姫鎬夫人=(聯合ニュース

 1972年に朴正熙政権による維新体制が登場してから、1987年6月の民主化抗争で民主化が実現するまでは、軍部独裁政権により反体制人物と見なされ、何度も投獄、収監され、海外で亡命生活を送るなどの苦難が続いた。1980年5月には、新軍部の非常戒厳拡大措置に対し学生を背後で扇動した容疑で拘束され、同年7月、光州民主化運動を事前指示したという内乱陰謀容疑で死刑宣告を受けた。しかし、国際社会の圧力で無期懲役に減刑、1982年に刑執行停止で釈放され、米国に渡った。1985年に第12代国会議員総選挙を前に帰国すると、金泳三(キム・ヨンサム)氏と民主化推進協議会共同議長として再び民主化抗争に乗り出した。


1985年、金泳三氏と=(聯合ニュース

 1987年に直接選挙制で実施された第13代大統領選挙では、野党の候補一本化に失敗し、平和民主党を結成し大統領選に臨んだが、民政党盧泰愚(ノ・テウ)候補と統一民主党の金泳三候補に次ぐ3番目の得票にとどまった。1992年の第14代大統領選挙民主自由党の金泳三候補に破れると、政界引退を宣言した。しかし1995年に政界に復帰し、新政治国民会議を結成し4度目の大統領選に臨むことになった。この翌年に自由民主連合の金鍾泌キム・ジョンピル)総裁との野党協力を打ち出し、ついに1997年の大統領選で当選、建国後初めて水平的政権交代を実現した。

 金元大統領は、民主化闘争と人権伸長、統一運動に生涯をささげ、独裁終息と民主主義の定着、朝鮮半島の平和醸成に大きく貢献したと評価される。特に大統領在任中は、朝鮮戦争後最大の国難とされた通貨危機を克服し、世界最高の情報化社会を作り上げた。また、北朝鮮金正日キム・ジョンイル総書記との間で植民地支配解放後初の南北首脳会談を行い、南北和解協力の時代を開いた。その功労で韓国人として初めてノーベル平和賞を受賞している。

 こうした業績にもかかわらず、親日的、人事偏重という論争や対北朝鮮融和の「太陽政策」をめぐる保守層との葛藤(かっとう)が続き、任期中の国政運営は容易ではなかった。退任後も北朝鮮への秘密送金、国家情報院の違法盗聴事件などで側近が起訴されたほか、現実政治への介入で政界との摩擦も生じるなど、論争は絶えなかった。

 金元大統領の逝去で、1960年代以降に政治に多大な影響力を及ぼした、金泳三、金大中金鍾泌のいわゆる「三金時代」も幕を下ろす。

http://japanese.yonhapnews.co.kr/Politics2/2009/08/18/0901000000AJP20090818003200882.HTML

2009/08/18 14:58 KST
金大中元大統領逝去>幕を下ろした「三金」時代

【ソウル18日聯合ニュース金大中(キム・デジュン)元大統領が18日に逝去し、半世紀近く韓国の政治を動かしてきた「三金」時代が幕を下ろした。
 金泳三(キム・ヨンサム)元大統領、金鍾泌キム・ジョンピル)元首相とともに「三金」の一人だった金大中元大統領は、唯一、政界引退後も政治に積極的に介入した。1960年代から韓国政治史を牛耳ってきた3人は、「永遠の敵も、仲間もいない」という冷酷な政治の現実を身をもって示した。

 時には同志として手を取り合い、時にはそんなことなど忘れたかのように激しい対立をいとわない。3人の関係は「愛憎」という言葉でも言い表せないくらいだと評される。また、政治で「入神」の境地に至ったという「政治9段」の呼び名は、この3人にだけ許された。それだけ3人が韓国の政治に残した足跡と弊害は深く、また幅広かった。

 金鍾泌氏は1961年、妻の叔父だった朴正熙(パク・チョンヒ)元大統領の5・16軍事クーデターに加担する中で政治史の表舞台に登場した。金大中、金泳三両氏は1967年、新民党の院内総務を決める党内選挙で「40代旗手論」を掲げて初対決した後、野党の新たなリーダーとして競争と協力関係を築いた。

 1979年10月26日、当時の朴正熙大統領が側近に暗殺され亡くなると、3人は政界での新たな跳躍の準備を進めたが、同年末に軍事反乱を主導した第五共和国新軍部が登場し、暗黒期を迎えることになる。

 金鍾泌氏は新軍部により、権力を利用した不正蓄財者第1号に追い込まれ、財産を差し押さえられ政治活動も禁じられた。金大中氏は内乱を企てたとして拘束され死刑宣告を受け、金泳三氏は自宅軟禁状態に置かれた。だが、民主化に向けた国民の力が「三金」に再び政治活動の場を作った。1987年6月、民主化抗争で大統領直接選挙制が導入されたのだ。

 金大中、金泳三両氏は候補一本化に失敗し、ともに同年の第13代大統領選挙に出馬、金鍾泌氏も忠清地域を基盤に名乗りを上げたが、野党勢力の分裂は与党候補だった盧泰愚(ノ・テウ)候補の勝利に帰結した。

 しかし翌年4月の総選挙で、金大中氏(平和民主党)は全羅道、金泳三氏(統一民主党)は慶尚道金鍾泌氏(新民主共和党)は忠清道の票を集め、地域感情に根ざした「与小野大」の構造を作った。

 1990年、金泳三氏と金鍾泌氏は執権与党と合体する「三党合党」(民主正義党・統一民主党・新民主共和党)に加わり、巨大与党「民主自由党」を結成した。金泳三氏は与党の大統領候補を狙い、金鍾泌氏は内閣制の憲法改正を念頭に置き、互いに手を組んだ形だ。しかし、金大中氏は民主自由党の誘いにもかかわらず、これに加わらなかった。

 最初に笑ったのは金泳三氏だった。1992年の大統領選挙で与党候補として出馬し当選、一方の金大中氏は敗北を認め政界引退を宣言した。

 金泳三氏の当選で「三金」政治は終わったかのように見えたが、これはまた別の始まりにすぎなかった。金泳三氏と金鍾泌氏は執権与党の民主自由党総裁、代表最高委員として協力関係を結んだが、金鍾泌氏は1995年、金泳三氏ら民主系の退陣圧力に反発して離党し、同年3月に自由民主連合(自民連)を結成した。金大中氏も1995年の地方選挙直後に政界復帰を宣言し、やはり全羅道を地域基盤とした新政治国民会議を旗揚げした。

 1996年の第15代総選挙は、また別の「三金」対決だった。金泳三氏率いる執権与党の新韓国党は過半数に満たない139議席にとどまり、金大中氏率いる国民会議は79議席金鍾泌氏の自民連は50議席を確保した。

 金泳三氏に締め出された金鍾泌氏は、1997年の第15代大統領選挙を前に金大中氏と手を組んだ。いわゆる「DJP連合」を結成した2人は、与党候補の一本化を実現。これにより、金大中氏は4度目の挑戦で大統領当選を果たし、金鍾泌氏は金大中政権の初代首相として政権のひとつの軸を担った。

 だが、「DJP連合」も長くは続かなかった。2001年9月、金鍾泌氏は内閣制の憲法改正約束が守られなかったとして連合の破棄を宣言。2002年の第16代大統領選挙新千年民主党盧武鉉ノ・ムヒョン)候補が当選し、金大中氏は前職大統領の一人として政界を退いた。

 金鍾泌氏は自民連総裁の地位を維持していたが、2004年総選挙で自民連が当時の盧武鉉大統領の弾劾訴追案に賛成したことから国民の支持を失い、惨敗した。比例代表でも当選できず、金鍾泌氏は「三金」のうち最後に政界引退を宣言した。

 しかし、3人は2007年の第17代大統領選挙で政治介入論争を呼び起こす。金大中氏は分裂した与党勢力の結集を呼びかけ候補一本化を促し、金泳三氏は「失った10年にピリオドを打つべき」として政権交代を強調した。金鍾泌氏はさらに前面に出て、ハンナラ党李明博(イ・ミョンバク)候補支持を表明した。

 「三金」は激動の韓国政治史で近代化と民主化の実現に寄与した一方で、地域主義とボス政治、金権政治などの弊害を残した。その政治の功労と過失は今や歴史のものとなったが、今なお韓国の政治スタイルは「三金」が作った地域主義の堅固な枠から一歩も抜け出せずにいる。


握手を交わす当時の金泳三新民党総裁、金大中平和民主党総裁、金鍾泌自由民主連合総裁(データベース)=(聯合ニュース

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2009/08/18 15:49 KST
金大中元大統領年譜

1924年 全羅南道・荷衣面に出生

1943年 木浦商業高校を卒業

1946年 車容愛(チャ・ヨンエ)氏と結婚

1948年 木浦日報社長

1952年 興国海運社長

1951年 韓国海運組合連合会理事

1954年 第3代民議員選挙に木浦から出馬、落選

1960年 民主党企画委員兼報道官、車容愛夫人が死亡

1961年 第5代民議員

1962年 李姫鎬(イ・ヒホ)氏と再婚

1963年 第6代国会議員

1965年 民衆党(民政・民主統合野党)報道官

1967年 第7代国会議員

1970年 新民党公認大統領候補に、慶煕大学大学院修士課程修了

1971年 第7代大統領選挙に出馬、落選。第8代国会議員

1972年 日本・東京で初の維新反対声明を発表(1度目の亡命)

1974年 民族回復国民会議に参加

1976年 3月に民主救国宣言を発表、逮捕され1978年まで収監

1978年 仮釈放後、自宅軟禁

1979年 「民主主義と民族統一のための国民連合」結成

1981年 内乱陰謀事件で死刑宣告

1982年 米国に亡命(2度目の亡命)

1983年 米国に韓国人権問題研究所設立

1985年 韓国に帰国、民主化推進協議会共同議長に就任

1987年 4月に統一民主党常任顧問、10月に平和民主党総裁、党公認大統領候補に

1988年 第13代国会議員

1991年 新民党総裁

1992年 第14代国会議員、第14代大統領選挙に落選、政界引退を宣言

1993年 英ケンブリッジ大学客員教授

1994年 アジア・太平洋平和財団理事長

1995年 新政治国民会議を旗揚げ

1997年 第15代大統領に当選

1998年 第15代大統領に就任

2000年 新千年民主党総裁、南北首脳会談を開催、ノーベル平和賞受賞

2002年 新千年民主党を離党

2003年 第15代大統領を退任、金大中図書館を開館

2004年 内乱陰謀事件再審で無罪宣告

2006年 金大中平和センター理事長に就任

2009年 逝去

http://japanese.yonhapnews.co.kr/Politics2/2009/08/18/0901000000AJP20090818002900882.HTML