日本の大学にいる若者・若手の内憂外患

立て続けに文字通りの「気になるニュース」を見かけたので、後々のためにクリップ。

まずこちら。大学院生が直面している〈苦境〉の、その苦しみにまで思いを届かせた、いい記事だと思います。

大学院生の内憂外患
科学部デスク 保坂直紀

 日本の知をこれから担うべき大学院の学生が就職難にあえいでいるという話は、もう珍しくもない。博士課程の修了者が年に約1万6000人も量産され、定職が得られないまま、数年間の臨時雇いを繰り返して食いつなぐ。将来の見通しがたたないから、結婚だの自分の家庭だのは考えようがない。そんな若い博士が相当数いる。

 私が就職した今から25年ほど前は、博士課程の修了者は年に4000人ほど。もちろん当時から博士の就職難はあったが、ちょっと我慢して待っていれば研究者として定職につけるという見通しを描ける時代だった。

 大量に生み出される博士と、それをあまり必要としない現在の社会。国が確たる見通しもないまま1990年代から進めた「高学歴化政策」のひずみといえる。みずからの意思で大学院に進んだとはいえ、その影響をもろに受ける現代の学生さんたちは、ちょっと気の毒だと思う。博士課程の定員割れが起きるのも当然だろう。

 就職難は、社会全体の構造とかかわる問題だ。そう簡単には解決できそうもない。では、大学の内部、というよりアカデミズム自体は、学生の意欲に水をさしていないだろうか。

 最近、こんな経験をした。科学報道に関係するテーマで論文を書いて、社会科学系の学術論文誌に投稿してみた。論文誌の編集委員会は、それが掲載に値するかどうかの判定を専門家に依頼する。これを査読といい、論文誌の質を保つために必要なことだ。だが、その結果が出るまでに、とても長い時間がかかったのだ。

 ある論文は、投稿を受け付けてから掲載が決まるまでに1年と13日。別の論文は1年5か月と5日だった。この話をある理系研究者にしたら、かれの分野では、結論が出るまでふつうは長くて数か月。だが、別の数学研究者は、1年くらい査読にかかるのはよくある話だという。投稿してから決定がでるまでは、おなじ論文を別の論文誌に投稿できない。それは二重投稿といってルール違反になるからだ。

 これらは掲載が許可されたから、まだいい。さらに別の論文は、受け付けから1年後に「不採用」の通知が来た。1年も待った挙句に、その論文を掲載してくれそうな別の論文誌を探し始めなければならないのだ。

 問題は、学生の場合、これが博士課程の在学期間にもろに影響することだ。たとえば都内のある有力大学では、査読に通った論文が最低でも2編ないと、博士論文の審査を始めない。査読に予想外の時間がかかり、博士課程修了の目算が狂うことだっておおいにありそうだ。3年が標準の博士課程在学期間からすると、1本の論文の査読に要する1年というのは、かなり長い。論文を細切れにして複数の論文誌に同時に投稿しておくという手もあるが、研究の内容によっては、そのようなマルチタスクが不向きな場合もあるだろう。私の場合は職を持ったうえでの余技だからよいが、これが就職に絡む学生だったら、自分の将来設計を査読者に握られている不安感は相当なものに違いない。

 もうひとつある。

 科学報道の研究は、日本では、これまでにほとんど蓄積のない新しい分野だ。したがってこの分野を専門とする研究者は少なく、ちょっとずれた分野の人が査読を担当することがままある。実際、どうもコンピューターによる情報処理が専門であるらしい査読者は「もっと現代風に高度なコンピューター処理を行え」というし、おなじ論文に対して別の査読者は「もっと認知科学の側面を重視するように」と心理学的なコメントをして、それぞれ自分の専門領域からみて低い評価を下す。査読は匿名で行われるので、かれらの専門分野に確証があるわけではないが、査読の視点にあまりにも偏りがあるように思う。本筋からの指摘ではないのだ。

 新しい分野で論文を書こうとする若者たちは、きっとおなじような苦労をしているのだろう。効率を考えるなら、新しいものに挑戦するのではなく、これまでに十分なされた研究の上に、ちょっとだけ新しいものを乗せるほうが得策だ。

 だが一方で、こんな指摘をする研究者もいる。「学問の世界は、新しい研究が生まれたら、あれこれいわずに受け入れてみればよいではないか。もし価値のない研究だったら他の研究者に無視されるだけなので、おおきな実害はない。それよりも、新分野であるがゆえに未熟だが、他の研究者を奮い立たせるかもしれない論文をつぶしてしまうほうが怖い」。新しい分野を歓迎するそのような気風が、アカデミズムには乏しいのではないか。

 甘ったれるんじゃない。それくらいのことが乗り越えられないようでは、世界と競える研究者にはなれません。優秀な学生はちゃんと論文を通し、すばやく学位を取って就職しています−−。

 そんな声が、すぐさま聞こえてきそうだ。たしかに正論かもしれない。だが、外からは就職難で攻められ、内には、なかなか来ない査読の結果を待つ憂い。いま学問を志す学生は、この内憂外患を生き抜かなければならない。敵はアカデミズムの外だけでなく内にもいる。とてもじゃないが、こんな世界には飛び込めない。そう思う若者がいても、不思議はない。査読システムの改善は、アカデミズム内部の心がけだけでできる。若き研究者の卵の敵は、せめて外だけにしてあげてはどうだろう。

(2010年10月29日 読売新聞)

http://www.yomiuri.co.jp/column/science/20101029-OYT8T00301.htm

「査読」というのはまあ、何らかの「質」を維持するには必要だとは思いますが、査読される側にしても査読する側にしても、「割に合わない」と思うことは山とあるはずです。

確かに、外部査読付の媒体だったらこれが掲載されることはなかったでしょうけど。

鹿児島大学准教授の論文が一部で話題に。「法隆寺五重塔は送電塔の模型」「八咫烏は宇宙船」といったラディカルな内容^編 (PDF) http://bit.ly/aB5z18

http://twitter.com/itmedia_news

それにしても、「査読付」という称号をつけるためだけに適当で見当外れなコメントをつけられたり、「査読付」として扱われることのない紀要などでやたら厳しい査読コメントがつけられた(りした末に、ひどいときには落とされた)り、物心両面で見返りがない形式的な査読作業に多大な労力が費やされたり…といった状況を「これでよし」と思っている人は、あまりいないように思います。


かといって、そんな未来の見えない大学だの大学院だのになど行かずに就職しようと思えば、待っているのはこういう現実です。

京都の大学・短大就職内定率、たったの37%

 京都労働局は、京都府内の大学・短大を来春、卒業予定の学生の就職内定率(10月1日時点)が37・7%と非常に低くなっていると28日、発表した。31大学、16短大を対象にした調査で、就職希望者2万670人に対し、内定しているのは7789人だった。

 前年度と比べての内定状況を各大学に聞いたところ、53%が「低くなった」と回答し、25%は「過去10年で最低」とした。「同程度」は45%、「高くなった」は2%だった。

 一方、新規高校卒業予定者の就職決定率は44・7%となっていた。

(2010年10月29日13時41分 読売新聞)

http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20101029-OYT1T00479.htm

とりあえず、「自分がかつて若者・若手だった時代」を引き合いに出して「いま現在の若者・若手」のことをパラレルに語るという態度への自制は、「おっさん世代」に求められる最低限のモラルだと思います。別にそれは、今の時代に限らないのですけど。