評論家の評論をどう理解するか。

記事入力 : 2011/09/11 10:36:11
【コラム】大衆が芸術家でなくカン・ホドンを選ぶワケ(上)

 評論家たちの不満はこうだ。「世間は刺激的なことだけが好きで、批判を無視する。浅はかだ。世の中の人間は全て(人気コメディアンで国民的司会者と呼ばれている)カン・ホドンやユ・ジェソクがふざけ、騒いでいるのを見なければいけないのか。舞踊・演劇・クラシック・文学・美術…。新聞に専門評論家の声を書いてくれ」

 一理ある。そこで、本格的な「レビュー」をお願いした。後輩記者が評論家と電話でやりとりした内容は次の通りだ。

 「○○○先生の演奏はいかがでしょうか」

 「まだまだだね。あまりにも軽くて…。まだまだだなのに、今では巨匠のように振る舞っているじゃないか」

 「はい…。では、どんなところが不十分かを具体的に書いていただきたいのですが…」

 「ああ、それはちょっと…」

 厳密に言えば、評論家たちが望んだのは本格的な「レビュー」ではなく、「結婚式の祝辞のような批評」を書く場だった。「結婚式の祝辞のような批評」とは、いいことはいいと褒めるのは当然だが、悪いことがあってもいいと褒める批評のことだ。極端なことを言ってしまえば、他人の言葉を借り、芸術家にへつらっているともいえるだろう(もちろん、決して全ての評論家がそうだということではない)。批判対象者の名前が大きければ大きいほど、評論家の度胸は引っ込む。

 なぜこのような状況になったのだろうか。第一の理由は、「批評の居場所」である評論誌がなくなったことだ。批評のレベルが低くて読者が離れたためにいい批評が消えたのか、読者が読まないからいい批評が消えたのか、どちらが先なのかははっきり分からない。ただ、読者が評論のために財布のひもをほどかなくなったのははっきりしている。

 居場所を失った評論家たちは「PR誌」に移った。最近、韓国の大衆文化界では、本格的な評論誌の代わりに、PRを兼ねた妙な形のカルチャーイベント紹介誌が大多数を占める。客集めのための紹介記事がほとんどで、作品を繰り返し鑑賞した上でのレビューではない。いうなれば、いかにも高級そうに装われた「スーパーのチラシ」だ。

http://www.chosunonline.com/news/20110911000019

記事入力 : 2011/09/11 10:36:17
【コラム】大衆が芸術家でなくカン・ホドンを選ぶワケ(下)

 これには「生計」の問題も絡んでくる。「人気作家」「著名な音楽家」「有名画家」「大手出版社」は文化の雑誌を、文化批評誌を、文化イベントを、関連フォーラムを「支配」する。日々の生活がやっとの評論家たちは、芸術家のおこぼれをもらわなければならない。その支配者は、批評を装ったお世辞を望んでいるだけで、真の批評は忌み嫌っている。「クラシック界の○○○に嫌われたら、もう批評を書く仕事は無理だ」「演出家の○○○に嫌われれば、飯の種がなくなる」。こんなうわさが広まれば、評論家たちはピリッと辛口のレビューを書けなくなる。評価する人(評論家)が評価される人(実演家)より力が弱いために起きる現象だ。記者たちに「わたしは書けないので、あなたが代わりに書いてくれ」と言う評論家もいる。

 外国紙をよく読む人は、なぜ韓国の批判は痛烈でないのかと責める。「この映画を見たら警察に通報せよ」(ロベルト・ベニーニ監督の映画『ピノッキオ』)、「一番涙が出たのは、ジェームズ・キャメロン監督が自分の力で台本を書くと主張したこと」(『タイタニック』)といった具合だ。しかし海外でも、痛烈なのは大衆文化評論家だけで、純粋芸術・文化批評はかなり消極的だ。だが、考えてみると不思議なものだ。批判される大衆文化はますます栄え、「お姫様」扱いされている純粋な芸術・文化はますますしぼんでいる。「偽善」が守っている市場は競争力を失うのだ。

 もちろん、次のように言う人もいる。「率直な批評は受け入れにくいものだ。特に、それが親族・友人・知人、あるいは知らない人がする場合は」。そう、誰でも批判は聞きたがらないものだ。すべての評論家が優れていて、その批判が正しいというわけでもない。

 それでも、批評とは、芸術家を実現不可能そうな夢という高みに挑戦させる刺激だ。芸術家にとって評論家とは「敵のふりをする味方」といえる。味方にお世辞を強要する韓国の巨匠たち。問題は、お世辞が飛び交う中、大衆はカン・ホドンとユ・ジェソクの元に集まっているということだ。

文化部=朴垠柱(パク・ウンジュ)部長

http://www.chosunonline.com/news/20110911000020

このコラム、要するにこういうことですか。

この記事をはじめ、様々なところでKARAやハラちゃんの歌唱力や演技力などを散々叩いていた評論家諸氏は、彼らの暮らす世界の「支配者」の顔色を伺いながら生きているものの、KARAについてはそのことを気にする必要がないからあんな風に遠慮なく叩けた、だから気に留める必要もないのだ、と。

さもなくば、つまり彼らが本来の批評精神を有した真の批評家であれば、あの吐き捨てるような酷評も、「実現不可能そうな夢という高みに挑戦させる刺激」だったのであり、彼らは「敵のふりをする味方」であった、つまりはみんなKARAのことを応援しているんだ、と。

有り難うございます。勇気が湧いてきました。

カンホドンの姿はしばらくテレビでは観れなくなりそうですが、ユジェソクの「ランニングマン」にハラちゃんやジヨンが出演している回を観れる日を、楽しみに待つことにします。