名投手・崔東源の話

群山の検索から群山商高→群山商高‐慶南高のレジェンドマッチと来て、この記事に行き当たったのも、恐らく何かの縁なのでしょう。

釜山の名門・慶南高出身で、延世大を経てロッテジャイアンツに入団し、剛球投手として活躍した崔東源は、敢えて例えるなら村山実江夏豊を合わせたような存在だったと思います。下の動画にもあるように、光州第一高・高麗大からヘテタイガースに入った宣銅烈とのライバル関係は、今も語り草になっています。

故 최동원, 모교 유니폼 입기 위한 마지막 의지
|입력 : 2011.09.14 12:21 |조회 : 1552

[OSEN=고유라 기자] "투병 사실이 드러날 것을 알면서도 고인이 행사에 참여한 것은 마지막으로 모교 유니폼을 입기 위해서가 아니었나 싶다".

최수원 한국야구위원회(KBO) 심판원이 14일 오전 별세한 형 故 최동원 전 한화 2군 감독이 지난 7월 투병 중에도 경남고-군산상고 레전드 매치에 참여한 까닭을 뒤늦게나마 밝혔다.

최 심판원은 14일 故 최동원의 빈소가 차려진 서울 신촌 세브란스 병원 장례식장서 취재진과 인터뷰를 갖고 "고인은 생전에 투병 사실이 언론에 알려지는 것을 꺼려하셨다"고 고인의 마지막을 회상했다.

故 최동원은 2007년 대장암 투병 소식으로 팬들을 안타깝게 했으나 상태가 호전된 듯했다. 고인은 지난 7월 22일 목동구장에서 열린 군산상고-경남고 레전드 매치에 참여했고 그때 나타난 핼쑥한 모습에 투병설이 나돌았다. 고인은 결국 14일 오전 입원 치료 중이던 일산병원에서 향년 53세로 별세했다.

최 심판원은 "고인이 7월 레전드 매치에 참석했을 때도 이미 몸이 좀 안좋은 상태였다"며 "그러나 긴 투병 생활 속에서 언론에 드러날 것을 알면서도 행사에 참여한 것은 제 생각에 마지막에 모교 유니폼이라는 것을 입고 그라운드에 나가고 싶었던 의지였을 것이라 생각한다"고 밝혔다.

허구연 MBC 스포츠플러스 해설위원도 "처음에는 고인이 부담스러워 했고 의사도 만류했지만 출전해 팬들에게 건강한 모습을 보여야 한다고 권유했다"고 밝혔다.

허 위원은 "본인도 다시는 모교 유니폼을 입을 기회가 없을 것임을 알고 나왔던 것이 아닌가"한다고 전했다. 이어 "'투수로 나와도 18m를 던질 힘이 없다'고 해 타석에라도 세우려고 했지만 팀이 지고 있어 나오지 못했다"며 안타까움을 표했다.

http://osen.mt.co.kr/news/view.html?gid=G1109140126


記事入力 : 2011/09/17 09:06:49
野球:故チェ・ドンウォンさん、最後の別れ

永遠のエース、ロッテのユニホームと共に天国へ


故チェ・ドンウォン前ハンファ2軍監督の息子、キム・ホ氏が16日午前、新村セブランス病院で出棺式を終えた後、父の遺影を手に霊きゅう車に乗り込んだ。/オ・ジョンチャン記者

 韓国プロ野球史の序章を飾った英雄が、二度と戻れない場所へと旅立った。そして、韓国野球の永遠なる伝説となった。

 大腸がんのため14日に死去した故チェ・ドンウォン前ハンファ2軍監督の出棺式が、16日午前6時30分からソウル市内の新村セブランス病院斎場で執り行われた。遺族や野球関係者のほか、故人が生前通っていた教会の信徒ら100人以上が出棺を見送った。

 出棺の礼拝を行った平康協会のキム・ミョンス牧師は「故人はがん闘病中も勇気を失わず、周囲の人々を気遣っていた。チェ・ドンウォンという最高の投手に出会え、私たちは皆、幸せだった」と追悼の辞を述べた。

 讃美歌が流れる中、故人が眠るひつぎが霊きゅう車に載せられると、あちこちから泣き声が聞こえた。涙を見せなかったのは、明るくほほ笑む故人の遺影だけだった。

 故人が残した足跡に比べると、最後の旅路は簡素なものだった。高陽市内のビョクチェ火葬場で行われた火葬式では、故人が現役時代に着用した本拠地用と遠征用のユニホーム2着が、遺体と共にだびに付された。

 ビョクチェ火葬場は、チェ前監督の父、チェ・ユンシクさんが2003年に死去した際に火葬された場所。チェ前監督にとって父は、野球を教えてくれた偉大な先輩だった。韓国戦争(朝鮮戦争)の際に足に破片が刺さったため、足を切断し、その後は義足を付けて生活していた。だが、息子の球を受けるために、家の前にあるネギ畑にマウンドを作った。縁のある眼鏡は視野が狭くなるとの理由で、当時としては珍しい縁なし眼鏡を求めて眼鏡工場を探し回った。息子が学校から帰ると、父は監督に変身し、息子のトレーニングを支えた。

 チェ前監督は、高陽市内の墓地公園で永遠の眠りに就いた。故人の汗がにじむ使い込んだグローブも、遺骨の横に納められた。出棺式に参列し、故人を見守ったMBCスポーツプラスのヤン・サンムン解説委員は「故人は韓国で最高の投手だった。最後まで野球だけを見詰め、そして逝ってしまった」と故人をしのんだ。

ホン・ジュンギ記者

http://www.chosunonline.com/news/20110917000010

記事入力 : 2011/09/15 15:45:13
母親が握らせたボール、最後まで離さず(上)

無敵の剛速球、チェ・ドンウォン前ハンファ2軍監督死去

 「今度、チャドルパギ(牛の肋間〈ろっかん〉の肉)をさかなに焼酎を飲もう。おれのことは心配しないで、体に気をつけてくれ。でないと、一緒に酒を飲めないだろう」

 少し前に電話で話した、プロ野球ハンファ・イーグルスのチェ・ドンウォン前2軍監督は「大丈夫だ。何でそうやって患者扱いするのか」「仕事をなくさせるようなまねをするな」と口にした。体調について尋ねるたびに「元気になったら、グラウンドで会おう」と明るく振る舞った。しかし、チェ監督はその約束を果たせなかった。14日午前2時2分ごろ、京畿道高陽市の一山病院で、静かに息を引き取った。ハンファの2軍監督に就任した2007年、大腸がんの手術を受けた後、一時は健康を取り戻したが、昨年にがんが再発し、治療が不可能になった。

■自尊心がつくった鉄腕

 チェ前監督は一山病院に入院する前、家族に「ボールを投げたい」と訴えた。病魔が襲いかかる中でも、グラウンドが脳裏から離れることはなかった。プロ野球の審判を務める弟のチェ・スウォンさんは「母が兄の手に、現役時代に投げていたボールを握らせた。兄は最後の瞬間まで、全身の力を込めてそのボールを握り続けていた」と話した。

 チェ前監督は今年7月、慶南高と群山商高のOB戦に出場し、すっかりやつれた姿で母校・慶南高のユニホームを着てファンの前に立った。チェ前監督は「無理なダイエットをして、副作用が生じただけだ」と話し、病気と闘っている事実を隠した。病気のため、立っているのがやっとだという事実を認めたくなかったのだ。

http://www.chosunonline.com/news/20110915000064

記事入力 : 2011/09/15 15:45:25
母親が握らせたボール、最後まで離さず(下)

無敵の剛速球、チェ・ドンウォン前ハンファ2軍監督死去

 チェ前監督は「おれは一番だ。マウンドに上がるたび、最高の球を投げるため最善を尽くした」という言葉を口ぐせにしていた。剛速球や落差の大きい変化球を武器とし、無敵を誇った。滑り止めの粉を片手につけ、ストッキングを引っ張った後、金縁の眼鏡を手で触る仕草を見せたとき、敵のバッターは死刑宣告を受けたような心境に陥った。ホームランを打たれたときには照れくさそうに笑い、次の試合では「もう一度打ってみろ」と言わんばかりにボールを投げた。その度胸は米大リーグのスカウトたちも驚くほどだった。

■最高の勝負魂

 チェ前監督は1984年の韓国シリーズで、1・3・5・6・7回戦に出場し、一人で4勝を挙げた。優勝を決めた直後に鼻血を出し「ゆっくり寝たいというのが願いだ」と話すほど、無理をして登板した。「劣勢と思われていたため、余計に勝ちたいと思った」とチェ前監督は話していた。

 チェ前監督は、後輩であり永遠のライバルだったサムスン宣銅烈ソン・ドンヨル)前監督と3回対決した。1986年に2回対戦したときは、1回は完封勝ちを収め、もう1回は完投負けを喫した。最後の対決となった87年5月16日は2対2の同点に終わった。延長15回の対決で、チェ前監督は209球、宣前監督は232球を投げ、最後までマウンドを離れなかった。チェ前監督は後に「銅烈よりも先にマウンドを下りたくなかった」と振り返った。プロ8年間で通算248試合に出場したチェ前監督は、103勝74敗26引き分け(平均防御率2.46)の成績を残した。84年の韓国シリーズの4勝1敗と、同年の223奪三振の記録はいまだに破られていない。

■「ロッテの監督になりたかった」

 チェ前監督は88年、選手協会(選手会に相当)の創設を主導し、古巣ロッテを離れることを余儀なくされた。引退後は野球界ではなく、政界や放送界に進出した。野球界がチェ前監督を受け入れなかったためだ。2001年、ハンファの金寅植キム・インシク)監督(当時)の計らいでハンファのコーチに就任したチェ前監督は、喜びの余り、まるで子どものようにはしゃいだ。普段から「古巣ロッテの監督を務めたかった」と話していたチェ前監督だったが、その夢を果たすことはできなかった。殯(ひん)所(出棺まで棺を安置する場所)はソウル市西大門区新村の延世大附属セブランス病院に設けられた。出棺は16日午前6時に行われ、京畿道自由路のチョンア公園に埋葬される。遺族は妻のシン・ヒョンジュさん(44)と、兵役中の長男ギホさん(21)。

姜鎬哲(カン・ホチョル)記者

http://www.chosunonline.com/news/20110915000065

記事入力 : 2011/09/16 08:38:39
野球:「故チェ前2軍監督の背番号、永久欠番を検討」

 14日に死去したプロ野球ハンファ・イーグルスのチェ・ドンウォン前2軍監督の背番号「11」を永久欠番にすべきとの声が、球界の内外で高まっている。チェ前監督の背番号を永久欠番にすることは、ロッテのファンたちの間では以前から話題に上っていた。

 永久欠番というのは、引退したスポーツ選手の功績をたたえるために、所属球団が引退した選手の背番号をほかの選手に使わせず、永久に欠番とすることだ。発足から30年を迎えた韓国プロ野球では、これまで9人(下表参照)の背番号が永久欠番となっている。1986年に死去したキム・ヨンシンさん(OB=現・斗山)が、永久欠番の第1号だった。

 宣銅烈ソン・ドンヨル)、パク・チョルスン、李万洙(イ・マンス)ら1980年代の創始記のプロ野球界で活躍したスター選手の背番号は、すでに永久欠番になっている。だが、チェ前監督は現役時代に華麗な活躍を見せたにもかかわらず、永久欠番という栄光とは無縁だった。ロッテ球団との関係がぎくしゃくしていたからだ。

 チェ前監督は1988年、選手協会の構成を主導したためロッテ側と摩擦を起こし、同年にサムスンへトレードされた。1990年にサムスンのユニホームを脱ぐと「ロッテは背番号を永久欠番にすべき」との声が相次いだが、これまで実現しなかった。

 だが、14日にチェ前監督が死去すると、世論が再び熱くなった。インターネットの交流サイトやソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)などでは「チェ・ドンヒョンの背番号を永久欠番にすることは『英雄』に対する最低限の礼儀」などのコメントが殺到。現在ロッテで背番号「11」を付けている投手のイ・ジョンミン(32)も「背番号は当然、譲るつもり」と話している。

 ロッテの姿勢も変わってきた。球団のチャン・ビョンス代表理事は15日、ソウル市にある新村セブランス病院の葬儀場に弔問に訪れ「故人の生前の背番号を永久欠番にすることを、前向きに検討する。この機会に永久欠番指定に関する球団内部の基準や手続きも整備したい」と述べた。1982年のプロ野球発足当時からあるチーム(サンミは除外)のうち、これまでに永久欠番の選手が1人もいない球団は、ロッテだけだ。

キム・ドンヒョン記者

http://www.chosunonline.com/news/20110916000011