真田山陸軍墓地の納骨堂…と、小田山の忠霊堂
「読売新聞」のこの記事。先日の陸軍墓地の記事と関連付けて読むことができるでしょう。
真田山の場合、小田教授の研究グループが保存や研究に精力的に取り組んできたおかげで、こうして調査が進んでいますけど、各地に残る旧軍墓地でここまでの活動がされているところはまずないでしょう。
兵士遺骨、身元8230人判明…大阪・陸軍墓地
骨つぼが並ぶ真田山陸軍墓地の納骨堂で調査を振り返る小田教授(右)ら旧日本陸軍が大阪市天王寺区に設けた「真田山陸軍墓地」で、納骨堂の骨つぼや骨箱を研究者グループが調べて、約8230人分の身元が判明した。
いずれも日中戦争から太平洋戦争末期までの戦没者。戦後68年の歳月を経て、遺族にも存在を知られていない骨つぼが多いという。旧陸海軍の墓地は各地にあるが、遺骨の身元や状況はほとんど調査されておらず、研究者らは本格調査の必要性を訴えている。
同墓地は明治4年(1871年)、大阪で陸軍が創設されたのに伴い整備された。創設期に亡くなった兵士をはじめ、西南戦争や日清戦争などで倒れた兵士、軍役夫らの個人墓標が5100余り建てられている。
日露戦争以降は戦死者が急増し、軍は全国的に個別の埋葬から合葬に転換。同墓地でも日中戦争以降の戦没者の遺骨は納骨堂に納められた。ただ、戦後の混乱で名簿などは残っておらず、遺骨の身元が分かっていなかったという。墓地は今、大阪市が管理している。
納骨堂を調査したのは、大阪電気通信大の小田康徳教授(近代日本史)らのグループ。2010年度、文部科学省の助成金を受けて、骨つぼや骨箱を一つひとつ開けて内部も調べ、今年6月、調査結果を報告した。納骨堂には4万3000人以上が眠ると伝えられていたが、実際は約8230人分だと判明。判明分のうち、戦局が絶望的になった1944〜45年分の7割は遺骨が入っていなかった。
◆真田山陸軍墓地=大阪に日本初の本格的な鎮台(後の陸軍師団)が創設されたのに伴い、整備された国内最初の陸軍墓地。面積はサッカーグラウンド2面分に相当する1万5000平方メートル。兵士らの埋葬に関する軍の考え方の変遷を示す歴史的資料として、地元住民らが保存を目指しているが、風化による劣化が著しい。
(2013年8月14日22時24分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130814-OYT1T00671.htm
真田山の納骨堂と似た施設の中で個人的に訪れたことがあるのは、会津若松市の小田山忠霊堂です。
場所は鶴ヶ城の東。住所でいうと花見ヶ丘ということになります。城の北にある会津若松市立第二中学校はかつての陸軍連隊駐屯地の跡地ですから、そこからそう遠くない場所です。
詳細については、こちらをどうぞ。私が訪れた当時、毎日ではありませんが管理人さんも駐在していましたので、域内の管理は非常に行き届いていました。
忠霊堂の建物は納骨堂になっています。管理人さんのおられる日には、中に入って納骨の状況などを見ることもできました。真田山の納骨堂にも入ったことがあるのですが、おおむね似た様子だったと記憶しています*1。
会津若松の連隊には、福島県内から徴兵された兵士が集まっていましたから、納骨されている戦没者の出身地も県内全域にわたっていました。こちらも真田山同様、調査研究する必要があると思うのですが、そうした動きがあるという話は寡聞にして知りません。
会津若松は今年、アレのおかげで観光面ではかなりの盛り上がりを見せていると思います。が、この小田山忠霊堂が注目を浴びるということは、まずないでしょうね。
もちろん、何も慰霊行為がされずに放置されているというわけではありません。念のため。
小田山忠霊堂におけるガ島忌 - ふくしまの戦争資料室.html
追記:小田山忠霊堂での戦没者慰霊を伝えたニュース動画を見つけました。遺族の高齢化、参列者の減少…どこもが直面していることだと思われます。
*1:納骨堂の規模としては、小田山の方が大きかったように思います。