思えば、鯖江の嶺北忠霊場を訪れたのも、福井県が「KARA聖地」となったその時のことでした。
なので、こんなニュースを目にした日の翌日に、嶺南・敦賀の陸軍墓地を訪れることになったのには、偶然の産物でありながらも何かの因縁を感じます。
敦賀駅から目指すのは岡山公園。ここは、山全体が、かつて敦賀に駐屯した陸軍部隊の墓地となっています。
この敦賀陸軍墓地についての詳細は、下記のサイトを参照することをお勧めします。
kanレポート - 敦賀陸軍墓地 編集しました。
まちかどの西洋館別館・古写真・古絵葉書展示室 - 古写真・ 忠霊塔(敦賀陸軍墓地 支那事変戦没者忠霊塔)
上のサイトにも説明があるように、ここには鯖江のような個人墓は見当たりません。あるのはすべて合葬墓・忠霊塔となります。
岡山公園のお山には各方向からのアクセス路がついているのですが、とりあえず中郷小学校とは反対側の公園から登っていくと、最初に見えるのは「合葬墓」碑なので、そこから順番に見ていくことにします。
この合葬墓は京都師団長の筆になっており、昭和16年9月建立とのことですから、敦賀連隊区廃止直前に建てられたことになります。
そこからひときわ高いところに、巨大な忠霊塔がそびえています。
裏に回ると、「支那事変戦没者忠霊塔」という刻字が見えます。これもふくめて、この敦賀の忠霊塔は鯖江の忠霊塔のものと全く同じなように見えます。先達の推察のとおり、両地の忠霊塔は同じ時期に同じものが建てられたのではないかと想像されます。
ちなみにこの高台を囲っている柵、これホントに砲弾の形してますね。
で、合葬墓から忠霊塔まで来て、さらに向こうを見ると、下って行った先にさらに碑が並んでいるのが見えます。これらは、「支那事変」以前の戦争における戦死者のための合葬墓です。
手前からそれぞれ、「満洲事変」・「上海事件」・「明治三十七八年役(日露戦争)」のものです。敦賀の陸軍部隊の参戦歴は日露戦争からのようですから、それ以前の時期に建てられることの多かった個人墓碑はもともと存在しなくてもさほど不思議ではありません*1。
当地にある忠霊塔・合葬墓碑の類はこれですべてなのですが、ここにはもう一つ、興味深い遺構が残っています。
この敦賀陸軍墓地の中心にあたる忠霊塔に向かっては、その正面に麓からまっすぐな階段が付けられています。この位置、そして脇にある星のついた手水鉢などから推測するに、この階段は戦前当時からあったものと思われます。
で、この階段を下った先にあるのは、中郷小学校の校庭なのですが、それを突っ切った先に、何か見えるものがあります。
その「何か」がある国道8号線側に回ってみます。こちらには、普段は使われていないようですが、中郷小学校の通用門があります。階段側からこちら側がよく見えたように、こちら側からも校庭越しに階段がよく見えます。
塀の向こう側、小学校の敷地内にあるのは、一対の石灯籠と「陸軍墓地参道」と書かれた石碑です。
この位置から見通す限り、これらの石灯籠や石碑がことさらに移動されたとは考えにくく、もともとここから忠霊塔に向けて、陸軍墓地の参道が伸びていたものと推測されます。
中郷小学校は、明治初年までルーツをさかのぼることのできる歴史ある小学校です。この小学校は、古くより陸軍墓地と隣接したこの場所にあり、戦後、平地の参道部分を校庭に繰り入れたのではないかと考えられます。で、入り口部分の遺構と階段より先(上)の部分が残ったのではないか、と。
http://edu.ton21.ne.jp/nakago/information/summary/?action=common_download_main&upload_id=258
この推測を補強するものが、忠霊塔に通じる階段の脇、向かって右手にあります。
「清水先生碑」と題したこの石碑は、明治29年に助手として中郷小学校に赴任以来、独学で正教員となり、大正11年に校長となって中郷村(当時)の教育発展に貢献しながら、昭和2年にわずか44歳で急逝したという、清水孫四良という人物の頌徳碑です。この碑が建てられたのは昭和7年、今も山裾に立っているこの碑には「校庭ニ建テ」という記述があり、旧参道の北側、今の中郷小学校の校舎と校庭の一部が、かつての中郷小学校の敷地だと考えると、いろいろ辻褄が合います。
地図に書き込むと、こんな感じになります。
この校庭部分を除けば、この敦賀陸軍墓地は基本的に、建立当時の姿を今に残しているようですね。
追記:参道入り口の遺構は、中郷小学校の敷地内にありますので、それを見たければ部外者は道路から覗き込む形になります。傍目にはいささか怪しいことになりますので、配慮が必要でしょう。
いえ実際、見回り中の警察官に職務質問受けましたからね…。小学校の周りを行ったり来たりして歩き回っていましたし、さぞ不審な行動に見えたと思いますよ。
まあ、こういうのを見て歩いていると割とよくあることですし、北京の八宝山人民公墓で強制退場させられたあの時の緊張感に比べれば…。