【岐阜の風景】東海学院大学と岐阜陸軍墓地

JR岐阜駅前から岐阜バスに乗り、東海学院大学前で降ります。この区間の路線バスは頻繁に走っているので、待ち時間はあまりありません。

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バス停に降り立つと、右手に大学の看板とアクセス道路が見えます。正面に見えるのは東海学院大学短期大学部で、大学のほうは左手に学生寮を見ながら回りこんだ裏手に門があります。

ここはもともと「東海女子大学」という名前で、共学化した現在も学部構成などには女子大の風情が残っています。こじんまりとした地方私立大学ですね。

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www.tokaigakuin-u.ac.jp

以上、大学紹介終わり。

さて、東海学院大学の正門脇に「桐野霊苑」という名前の墓地があります。桐野というのはこの場所の地名です。

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一段高くなった墓地の正面入り口すぐの道路に面したところに「慰霊碑」と刻まれた石碑が立っています。

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道路に面した裏面を見ると、13名の陸海軍戦没軍人の遺族によって昭和24年9月に建立されたことが、各人の戒名や享年・戦没地などの記録とともに記されています。

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何故ここにこの碑を建てたのか。それは、この碑の正面に立って右手に目をやればわかります。

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住宅の向こう側に見える林のような場所こそ、岐阜陸軍墓地に他なりません。1949年の時点ではすでに戦没軍人を葬ることはできなくなっていたはずの陸軍墓地を近くに望む場所としてこの場所が選ばれたであろうこと、想像するに難くはないでしょう。

岐阜陸軍墓地の入り口は、この慰霊碑からは反対側にあります。そちら側に回ると、まず見えてくるのは白山神社。社格は村社です。陸軍墓地に接したこの神社には、かつて軍人の参拝も少なくなかったと思われます。

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岐阜陸軍墓地の入り口は、この白山神社の鳥居からすぐのところです。

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この軍人墓地は現在、敷地の中心が空き地となっており、周囲に慰霊碑群が並ぶという構成になっています。

入ってすぐ左手に見える、墓地の整備の経緯などが記された説明板は、昭和11年当時のものです。

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ここから時計回りに墓碑群を見て回ります。

これはおそらく、戦病没者の合葬墓を兼ねていますね。

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こちらは満州事変のもの。

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上の二つは戦前戦中のものですが、こちらは新しい慰霊碑、平成10年の建立です。

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その脇のこちらは平成13年の建立です。

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さらに隣には「軍馬の碑」。こちらは平成11年の建立です。これらの一連の碑はつい最近になって、歩兵第68連隊戦友会によって数年の間に相次いで建てられたことになります。

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そして敷地のいちばん奥には、木の根元に個人墓碑が2基。文字が刻まれていることはわかりますが、完全に判読するのは難しい状態です。もともとはこのような墓碑が墓域内に並んでいたらしいのですが、合葬によって整理されたようです。なぜこの2基だけが残されたのかは、よくわかりません。

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ちなみに、慰霊碑や墓碑が並んでいるのはこちらの側だけです。

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反対側は、立木が並んでいる他は、わんこの遊び場となっているくらいです。

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さて、陸軍墓地についてはここまでですが、岐阜に来たついでに、歩兵第68連隊の兵営跡も見ておきましょう。

少し移動して、岐阜東高・岐阜東中・富田高・長森中・岐阜総合医療センターなどに囲まれた野一色公園。このあたりに兵営や陸軍病院などがあったようです。

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で、連隊兵営跡であることを示す史跡碑は、遊び場となっている広場のど真ん中に。隅っこ過ぎて誰も見向きもしないというのもどうかと思いますけど、これはこれでまたどうかと思いますねえ…。

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そして、公園を出て長森中学校の敷地を道路沿いに回り込むと、学校の敷地内に移設された陸軍病院の東門が見えてきます。

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フェンスに囲われてはいますけど、説明板も完備され、きちんと保存されています。

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今回の岐阜訪問はここまでです。帰りは、名鉄各務原線の切通駅まで歩いて、岐阜女子高の生徒に囲まれながら、岐阜駅まで戻りました。


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最後に、これらの場所を先に訪問されている方々の訪問記を。書き漏らしたところや詳細については、これらの記事をご参照ください。

忠魂碑・記念碑を訪ねて3:那加桐野町: 忠魂碑・記念碑を訪ねて
各務原市:岐阜陸軍墓地: 忠魂碑・記念碑を訪ねて
大日本者神國也 歩兵第六十八聯隊(幸三七〇四、中部第四部隊)他兵営
幻影現実 私的工廠 ブログ:戦争遺跡 岐阜陸軍墓地 2015年10月24日 撮影