【倉吉の風景】上北条地区軍人墓地

…と呼ばれる軍人墓地が倉吉市にあるのは聞き及んでいたのですが、ネット上ではなかなか所在地などの情報が得られませんでした。毎日新聞日本海新聞がそれに少しだけ触れた記事を出していましたが、既に削除されています。

いま手がかりになるのは、これくらいですかね…。

上北条・上井・西郷地区の文化財 | 倉吉市行政サイト

・[県指定保護文化財]袈裟襷文銅鐸 2個

所在地:仲ノ町 倉吉博物館
指定年月日:平成4年4月14日

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昭和22年(1947)頃、市内小田の軍人墓地造成の際に出土しました。弥生時代中期の制作と推定されており、1号鐸は高さ30.4cm、2号鐸は44.3cm。両方とも袈裟襷文(けさだすきもん)などで飾られています。(写真左から1号鐸、2号鐸)(上北条地区小田出土)

とりあえず、住所は「小田」ということはわかりました。そして、今はネット上にない毎日新聞の記事には「市内を望む高台の一角に設けられた「上北条地区軍人墓地」を訪ねた」という記述もありました。

そこで、「小田」「上北条」というキーワードを頼りに上北条小学校や倉吉総合産業高校の周囲を探し回りましたが、ぜんぜん見当もつきません。そもそもそのへん、土地が平らやし。

なので、ちょっとした小山に建っている「伯耆しあわせの里」で、何か情報はないか訊こうと思ったのです。

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すると、その玄関の正面にある茂みの向こう側に、何か見えるものがありました。

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これは実は裏側なので、山道伝いに正面に回ってみます。

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なるほど、どうやらこれが紛れもない「上北条地区軍人墓地」であるようです。日露戦争後に上北条村によって慰霊碑などを建てた軍人墓地が設けられ、満州事変後の昭和9年にこの地に移転してきたという経緯があるのですね。

こちらの石碑は草に埋もれて全体を見ることはできませんが、「昭和9年」と刻まれ、墓域に桜の木を植えたといった趣旨のことが述べられているようです。

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そして正面に見える「報效之碑」は、先ほどの移転経緯を記した石碑にもある通り、移転前の旧墓地に置かれ、ここに移されたもののはずです。題字の揮毫は寺内正毅・陸軍大将です。

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この背の高い石碑の背後に並ぶのが、個人の墓碑群です。大きく2群に分かれています。

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手前に並ぶやや大きな墓碑は、主として日露戦争戦没者のものです。

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その背後、若干小ぶりな墓碑は、満州事変以降のいわゆる十五年戦争期の戦没者のものです。

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これらの両墓碑群、若干のサイズが異なる以外は基本的に同じスタイルのものです。軍人・軍属の別、あるいは階級に関わらず同じサイズの墓碑が用いられている点、陸軍管轄ではなく村立であったことに関係があるような気がします。特に、大多数を占める昭和の戦没者のお墓は、側面の墓誌の書き方にも特徴があります。遺族との続柄から書き始めるという形式は、他でもあるのでしょうか。

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地元以外の方にはあまり知られていないようですが、戦没者慰霊の地としてたいへん興味深いあり方を今も保っている墓地です。

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ちなみに、墓地のある高台から倉吉駅方面を眺めるとこんな感じです。ご参考までに。

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