こちらの続き。富山県護国神社から富山陸軍墓地へと移動します。
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…というのは簡単ですが、交通の便がなかなかよろしくない場所で。
近くまで行けるバスなどを検索していたのですが、カリカットでカレー食ってる間に時間を逃したり、なんだかんだでけっきょく富山大学前から往復歩いていくことにしました(大学前までは路面電車で行けます)。まあこういう道のりを歩くのはいつものことですし、嫌いではありません。
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で、富山の陸軍墓地ですが、お寺さんの墓地や市民墓地を併せた広大な墓地の一角にあります。ここが墓地であることについては、旧富山藩前田家の廟所に由来する歴史があるそうです。
富山大学方面から歩いていくと、道路沿いにまずこちらが目につきますが、これは陸軍墓地ではありません。私人の寄進によって築かれた共同墓地です。
もう少し歩いていくと、陸軍墓地の入り口が見えてきます。
この石板にも説明がある通り、ここにあるのは忠霊塔(1941年建設)と、その左右に合わせて3基の合葬碑です。
参道の正面に忠霊塔。「支那事変戦没者忠霊塔」という文字は、裏側に刻まれています。
向かって右手には、銀杏の木陰に上海事変の陣没者合葬碑(1932年)、その碑と忠霊塔との間に満洲事変の合葬碑(1937年)が立っています。
で、反対側には陣没者・病死者のための合祀碑(1933年)。先に見た碑とは「葬る」か「祀る」かという違いがありますね。また、1925年の「転営」とあるのは、このとき歩兵第35連隊が金沢から富山に移ったことを指しています。富山転営後の歩兵第35連隊の戦歴は旧満州や上海など中国大陸が主だったので、この墓地もこのような構成になっているのでしょう。1925年に廃止された旧第69連隊の時代に関連する遺構はなく、そのあたりの経緯の手がかりになりそうなものも見当たりません。
この地の墓地が近代以前からの由来を持っている中で、陸軍墓地も明治のころからあったはずなのですが、現在の姿は昭和期以降のものであるようです。非常に秩序だった敷地のあり方や整地の状況からして、聯隊転営後の昭和初期の段階でそこそこ大規模な再整備工事がされているような気がします*1。
建碑の年代から推測すると、第一次上海事変(1932年2月)出征→帰還(5月)後、合葬碑建立(12月)→その後、墓地整理(1933年3月)、金沢陸軍墓地にあった日清日露戦争の戦死者の分骨を合祀碑に合祀(9月)→追って満洲事変の合葬碑を建立(1937年5月)→日中戦争の全面化を受けて忠霊塔建立(1941年10月)、という流れになりますかね。ここで気になるのはやはり、明治・大正期の陸軍墓地の埋葬者の行方です。合祀碑に併せて合祀していたとすればスッキリするのですが、そのような記述は説明板にはありません。かと言って、廃止された部隊の戦死者に他に行く場所があるかというとそれも疑問です。
この件は、今後の課題ということにしておきます。
追記:なお先達の訪問記はこちらです。
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*1:今は全く見当たりませんが、それ以前には個人墓があってもおかしくありません。