【小樽の風景】小樽市営中央墓地

ところで、そもそもの小樽での第一目的地は、小樽商大でも運河でもなく、こちらでした。

この中央墓地は戦前からのものであり、小樽市内では最大の公営墓地であると同時に、葬祭場(火葬場)も併設されています。

詳しくはこちらのページを。ネット上の中央墓地の情報には、永倉新八絡みのものが目につきますね。

http://www.city.otaru.lg.jp/simin/koseki/boti.html

ちなみに、小樽に縁の深い小林多喜二のお墓は、中央墓地ではなく、奥沢墓地にあるのだそうです。

その他、小樽中央墓地について出てくる情報としては、「萬霊塔」「合同墓」といった合葬墓の所在地としてのものがあります。下記の記事を併せ読めば、それらの性格の違いはよくわかると思います。

萬霊(供養)塔について
投稿日: 2013年8月14日

全国各地のお寺や霊園に「萬(万)霊塔」「萬霊供養塔」「萬霊塚」「萬霊墓」「三界萬霊塔」と呼ばれるお墓があります。遺骨の引き取り手がいないなど、「無縁」の人たちの遺骨を納めるお墓ですが、その成り立ちについては、東京・両国にある回向院の歴史を参考にすると理解しやすいでしょう。

通称「振袖火事」は、明暦3年(1657年)に江戸であった大火で、十万人以上の人命が失われました。身元の分からない犠牲者が大半を占め、江戸幕府は対応に苦慮しました。そこで無縁の死者を供養する「万人塚」を作り、その運営を増上寺(浄土宗)に任せました。これが回向院の始まりです。つまり萬霊塔は最初から公的な性格があったお墓なのです。

回向院は、正式の名称を「諸宗山無縁寺回向院」といいます。浄土宗のお寺ですが、一宗一派にとらわれずに無縁供養するという意味が込められています。

こうして、回向院は大火・風水害・震災などで横死した無縁仏を葬るお寺(墓)となったとのことです。

小樽市の市立中央霊園には、共同墓と別に萬霊塔(写真参照)が設けられています。小樽は港町ですので、昔から海難事故が起きていました。その犠牲者(他の無縁仏も含む)を供養するためにお墓が作られたのです。小樽に限らず、全国の海沿いのお寺に萬霊塔が多いのは同じ事情によるのでしょう。

漁師町では、海難事故が起きると、全力で救難活動を行うことになっていて、相手が地元の船であるかどうかを問いません。海に働くもの同士の「掟」として、昔から強く守られてきたのだそうです。萬霊塔にもその「掟」の精神がつながっているのでしょう。

回向院(両国駅近く)を訪ねると、海難事故の犠牲者など、各種の供養塔を見ることができます。お暇な折に、見学に行かれてはどうでしょうか?

http://ohakaproject.jp/?p=278

小樽市合同墓」完成 10/1から受付け (2012/09/25)

 小樽市で最大の市営中央墓地(緑5・4,400区画)に、このほど「小樽市合同墓」が完成し、10月1日から受付けを開始することになったと、9月25日(火)に開かれた定例市長記者会見で、中松義治市長が明らかにした。

 合同墓の規模は、2m×3m、70㎡のコンクリートボックスで、3,000体を埋葬できる。670万円の工事費で、10月に完成し、1日から受付けを開始し、10月末から納骨ができるとしている。

 目的は、少子高齢化核家族化などにより、墓の継承が出来ない人や身寄りがない人、経済的に墓を建立することができない人、骨を自宅で保管するなど納骨が困難な状況にある人たちが使用する施設としている。中松市長は「これまで市民から多くの要望が寄せられていたので、眺めの良い所に建設することにした」と話した。

 使用料は、一体当り5,000円で、使用申込者は、 ①市に居住し、埋蔵する焼骨を持つ者 、②市に居住したことがある故人の焼骨を、合同墓に埋蔵する者、③現に市の一般墓地の使用者で、そこに埋蔵されている焼骨を合同墓に改葬し、この一般墓地を返還する者としている。

 合同墓は、道内では、札幌にあるのみで、小樽は2番目となるという(戸籍住民課)。一体一体の骨壷での納骨ではなく、他人の骨と一緒に撒き入れるため、一度納骨したら、骨を戻すことは出来ないことに注意が肝要だ。

http://otaru-journal.com/2012/09/0925-3.php

小樽市営中央霊園の共同墓


2012年10月に開設された「共同墓」は、使用料が5000円。年間60体の使用を市側は見込んでいましたが、実際にはすでにそれを上回る利用者数になっています。3000体の遺骨を収容でき、遺骨の名前などは市が台帳で管理する方式です。

小樽市には市営の「萬霊塔」がありますが、市では「萬霊塔は引き取り手のない遺骨を行政が処理する施設であり、市民が利用する合同墓とは性格が異なる」と説明しています。

http://ohakaproject.jp/?page_id=151

尼港事件について補足すると、虐殺事件が起きたのが5月24日で、日本からの救援隊が現地に到着したのは6月3日でした。

日本人が収容されていた刑務所は焼き尽くされていました。

遺骨は個々人を特定することもできず、まとめて日本に運ばれ、小樽の浄応寺に仮安置されました。

その後、大正十三年(1924年)に手宮公園内に納骨塔を建立し、毎年5月24日には追悼供養の法要を行ってきました。

昭和十二年にはシベリア航路を持つ藤山要吉氏の自費で宝塔などを建て、霊場を整備しました。

平成元年には遺骨(遺灰)を都市公園法上、公園地内に置けないということで、小樽市の中央墓地の萬霊塔に遷されました。

http://ameblo.jp/dr-murazumi/day-20110702.html

で、実際に行ってみたのですが、アプローチの道路を進んでいくと、突き当たりの左手に葬祭場が、右手の山手一帯に墓地が広がっています。この山を越えた向こうにあるのが、他でもない小樽商科大学です。



上に見た合同墓と萬霊塔は、アクセス道沿いのいちばん下のエリアにあります。







この他にも、慰霊碑や各種団体の合同納骨墓はいくつか目にしました。




とは言え、基本的には一般の公営墓地なので、大部分の墓域は普通の家墓が占めています。ただ、戦前から続く古い墓地だけに、時代・広さ・形式・宗派などの点においてかなりバラエティに富んだお墓が点在しています。この墓地を詳しく調査すれば、小樽の近代史を裏から見ることができるかもしれません*1




*1:こちらのQ&Aを参照する限り、小樽市もそのあたりは把握しきれていないようです。