姫路の名古山墓地を挟んで、ずいぶん間が空きました。
blue-black-osaka.hatenablog.com
慰霊塔からの距離は、何十メートルかしかないんですけどね。
なんだか不思議な角度からのアプローチになります。
降り立ってすぐのやや開けた場所には、供養塔と満州事変の合葬墓、そして少将および佐官の個人墓が取り囲むように並んでいます。
この佐官クラスの個人墓の列の端は斜面ギリギリになっていて、状態としては不安定なことになっています。
この向かい側から奥手の通路状のスペースにかけては、尉官クラスの個人墓が並んでいます。
奥は突き当りになっています。振り返ってみれば、斜面を切り開いているせいなのか、やはり若干傾いでいる墓碑も見えます。この斜面の上には開けて平らな土地が広がってるのに、なんでこんなせせこましいところに将校連のお墓が集まっているんでしょうか。
先に見た説明板によれば、ここはもともと将校・下士・兵卒に区分して埋葬されていたといいます。それはまあそうだったろうと思うのですが、ここが元来の将校墓域であるとすれば、今は墓のない上の広場や慰霊塔のあるあたりが、かつての下士・兵卒墓域だということなんでしょう。
慰霊塔に先立つ忠魂塔の建設開始は第二次大戦末期、塔内には日清日露戦争以来の戦没者の遺骨が納められているといいますから、おそらくは忠魂塔建立以前に墓地整理の計画があり、下士官以下の墓地は忠魂塔の建設に先立って(合葬を前提に)整理されたのではないでしょうか。
今のところは現場を見た上での類推に過ぎませんけど、備忘のために書き留めておきます。
なお、現場についての詳細は、数々の先達の記録をご参照ください。
nippon-gokoku.sakura.ne.jp
kanreport.blog58.fc2.com
www.pref.ehime.jp
mamo.huu.cc
http://oukanokizuna.web.fc2.com/gunjinbochi/sanpai-ehime-maruyamabochi.html