ニッポンのコピペ

コピペは別に日本の専売特許でも何でもありませんが、関連ニュースを時系列的に並べてみれば、そこにはイマドキのニッポンの何かが通底しているようです。

教員論文コピペ撲滅へ、発見ソフト導入した大学
2014年08月10日 21時09分

 広島大は約2000人いる教員の論文を対象に、盗用を見つけ出すコンピューターソフトの運用を始めた。

 同大は年間5000〜6000本の論文などを学外に発信。世界大学ランキングで〈トップ100〉入りを目指しており、「このソフトの運用で当大学の学術情報の信頼性を高めたい」としている。

 ソフトは米国製の「アイセンティケイト」で、今月から運用。専用サイトに論文のデータを送ると、学術誌に掲載された約1億3000万本の論文・文献や、約450億のウェブページなどを収録したデータベースと自動的に照合する仕組み。論文などを引き写す「コピペ」(コピー・アンド・ペースト)など文章の丸写しがあれば、論文名や一致した箇所がわかる。

 各教員は、自分の論文や、指導した大学院生の論文などを学外発信する際、事前に同ソフトを利用してチェックする。

 同大学術・社会産学連携室は「教員が適切にソフトを運用しているかどうか、定期的にチェック状況を確認する」としている。導入費用は約300万円。名古屋、金沢など各地の大学が、すでに同様のソフトを運用しているという。

 広島大は、今回の運用とは別に、2011年度から新入生ガイダンスで全大学院生に、パンフレット「研究倫理案内」(日本語、英語、中国語)を配り、盗用防止を呼びかけている。(小宮宏祐)

http://www.yomiuri.co.jp/it/20140810-OYT1T50021.html

【政治】広島平和式典 首相スピーチ「コピペ」 昨年と冒頭ほぼ同じ
2014年8月8日 朝刊

 広島市で六日に開かれた被爆から六十九年の平和記念式典で、安倍晋三首相が行ったスピーチの冒頭部分が昨年とほぼ同じ内容だったことから、インターネット上で「使い回し」「コピペ(文章の切り貼り)だ」と批判を集めている。

 安倍首相は「人類史上唯一の被爆国としてわが国には『核兵器のない世界』を実現していく責務がある」などとあいさつ。読み上げた文章を昨年と比較すると「六十八年前の朝」が「六十九年前の朝」となり、「せみ時雨が今もしじまを破る」という表現がなくなった以外は冒頭三段落が一字一句同じだった。今年は四十三年ぶりに雨の中で式典が開かれていた。

 後半部分は、いずれも「軍縮・不拡散イニシアチブ」の会合や原爆症認定について触れているが、表現は異なっていた。

 東京都世田谷区の上川あや区議が、テキスト比較ソフトを使って両者の冒頭四段落を並べた写真を七日未明、短文投稿サイトのツイッターに投稿。五千人以上が転載した。

 広島県原爆被害者団体協議会(金子一士理事長)の大越和郎事務局長(74)は「厳粛な慰霊碑の前で前年と同じあいさつをするとは、広島や被爆者、平和を軽視している証左だ。それが底流にあるから集団的自衛権の行使容認を閣議決定したのではないか」と話した。


ツイッター」に投稿された、広島・平和記念式典での安倍首相の昨年(左側)と今年のスピーチ。違う部分だけ塗られている(東京都世田谷区の上川あや区議提供)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2014080802000132.html

【政治】首相また「コピペ」 長崎平和式典スピーチ
2014年8月9日 夕刊

 安倍晋三首相が九日、長崎市での平和祈念式典で行ったスピーチは、冒頭の表現など、およそ半分が昨年の記述と酷似していた。六日に広島市での平和記念式典で行った首相のスピーチも、冒頭部分が昨年とほぼ同じで「コピペ(文章の切り張り)で被爆者軽視だ」と批判を受けたが、姿勢を変えなかったことになる。

 スピーチの冒頭部分で首相は、原爆の犠牲者を悼み、後遺症に苦しむ被爆者にお見舞いを述べた上で、長崎を復興させた人たちの努力に触れている。

 この中で、昨年と表現が違うのは原爆投下からの年数だけ。昨年のスピーチで「被爆六十八周年」だったのが「被爆六十九周年」に、「六十八年前の本日」が「六十九年前の本日」にそれぞれ変わった。「苦しみ、悲しみに耐え立ち上がり、祖国を再建し、長崎を美しい街としてよみがえらせました」など、ほかの部分は一字一句違わない。

 原爆症認定基準の見直しなど、政府の取り組みを紹介する部分は昨年と異なる。しかし、核兵器廃絶への誓いを述べる末尾の部分は、冒頭と同様、昨年のスピーチとほとんど一緒だった。

 政府は、広島市での首相スピーチが昨年と似ていたことについて、「一年一年、中身を吟味しながら、犠牲者や平和に対する思いを盛り込んで作っている」(加藤勝信官房副長官)と釈明していた。長崎でも表現が昨年と酷似していたことで「平和に対する思い」の深さに疑問符がついた。

 首相はこの後、被爆者団体と面談。長崎原爆遺族会の正林克記(まさばやしかつき)会長は首相に「ちょっとがっかり。被爆者みんながびっくりした状態です」と失望を伝えた。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2014080902000239.html

「コピペ博士」から透けて見える社会の本音 - nikkei BPnet〈日経BPネット〉

 理研早稲田大学に関しては既に多くの方が記事を書かれているので、ここでは重ねて述べません。一方、STAP細胞にまつわる一連の騒動で感じるのは、科学者・研究者のコミュニティと、政治家や社会の一般の方々の認識のギャップです。政治家は社会(有権者)を写す鏡でもありますから、小保方さんを擁護する政治家がいるというのは、一般の方々にもそういう方が相当数いるということでしょう。

 ひょっとしたら、大概の人の反応は、「別に学位を与えて人が死ぬわけでもないし、お金が損するわけでもない。別にいいじゃないか」という感じかもしれません。博士と学士を同列で比べるのはおかしいかもしれませんが、学位の基準になると、誰しも自分のことを思い出してしまうのかもしれませんね。自分の学生の頃を思い出すと、「そういえば自分は大学ではほとんど勉強しなかったし、いい加減な卒論でも卒業できたよな」と。

 経営者や政治家が功成り名を遂げた後に、自伝やインタビューで「自分はいかに大学で遊んで勉強しなかったか」を自慢することも多いです。また、「たとえ学業ができなくても、勉強しなくても(特に就職が決まった)学生は卒業させろ」というプレッシャーを感じる大学の教員も多いのではないでしょうか。今回の博士の学位に対しても、厳格な基準を適用しなくて良い、という社会の雰囲気を感じるのは私だけでしょうか。

http://techon.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20140728/367561/?ST=mono&P=2

 大学も変わらなければならない時に、今回の博士論文の騒動が持ち上がりました。率直に言って、今回の博士論文騒動では、日本の社会は大学に大して期待していないし、以上のような問題意識は、社会の方にも大学にもまださしてないのかもしれないな、と少しガッカリしました。海外の大学でMBAを取った社員を「使いにくい」と日本企業では言われるように、身に付けたスキルで人を評価するようになるにはまだ時間がかかるのかもしれません。

 教育と社会は表裏一体です。STAP細胞の博士論文の顛末は、ある意味で現在の日本社会を映し出しているように感じます。学生の学力が下がっても、「それでも卒業させろ」という社会のプレッシャーもあり、教える内容や卒業の基準がゆるくなる。教育の現場では、学生に厳しい教員は敬遠され、単位を簡単に出す教員が歓迎されることも。そして、学力が低下した学生でも使わざるを得ない企業。

 この負のスパイラルは、企業が外国人を積極的に採用したり、優秀な高校生が海外の大学に進学したり、質の低い大学の経営状態が悪化することで少しずつ顕在化していくのかもしれません。優秀な子供たちを集めている中高一貫校には、「東大よりも海外の大学を目指そう」と大学から海外に飛び出すことを奨励しているところもあるようです。どれだけ早く変われるかは、まさに私たち自身に問われている問題ですが、グローバル化や技術の急速な変化は、企業だけでなく、個人の学びや大学の在り方にも変化を迫っているのではないでしょうか。

http://techon.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20140728/367561/?ST=mono&P=3