東大本郷キャンパスのすぐ外にある慰霊碑

それは、東大本郷キャンパス正門から道路を渡ったマンション前に置かれ。





また、同じく弥生門を出て右手、歩道に沿った塀に、設けられています。





この碑の謂れを解説した文章を探してみたところ、こちらに行き当たりました。

http://www.sc.ouj.ac.jp/center/hiroshima/2014/07/014220.html

…そしてある時、本郷の東大近辺を歩いていて偶然、二つの学徒慰霊碑を見つけ、その来歴を知ってあらためてかねてよりの疑問をふくらませた。

 その一つは本郷キャンパス正門前にある「東京大学戦没同窓生の碑」(平成12年5月建立)であり、もう一つは同弥生門前の「東京大学医学部戦没同窓生の碑」(平成13年5月建立)である。いずれも東京大学医学部の同窓会である東京大学鉄門倶楽部有志によって設立された。前者の石碑には良寛の「天上大風」という言葉が刻印され、その隣の銅版には、大学による学徒出陣の調査によって明らかとなった1,700人近い戦没者(実数は2,500人に達すると推定される)の存在に驚き悲しんで、この追悼の碑を建てる旨が記されている。また、後者には満州事変、日中戦争、太平洋戦争での200人を超す戦没東大医学部同窓生の氏名と戦没地が刻まれており、その横にはこの地に碑を仮に建てるにいたった理由が同じく銅版に記されている。

 二つの碑が世紀の変わり目(2000年と2001年)を契機に(戦後55年も経て)、ともに大学構内ではなく、付近の民有地にその所有者の善意によって仮に建立されたということ。このあたりにイギリスとは異なる、日本の場合の戦没学徒慰霊・追悼をめぐる複雑な事情が潜んでいるように思われる。まず、設立の時期についてだが、敗戦国で戦後の混乱等により、戦没者の実態把握には多年にわたる調査を要した。それゆえに慰霊碑設立が遅れたということがあろう。また、これも敗戦国ゆえのことだが、戦争責任をめぐる問題やいわゆる靖国問題とも関わり、戦後の政治情勢の中で戦没者の慰霊・追悼についてタブー視する風潮があったことも大きい。実際、鉄門倶楽部は医学部構内への追悼碑の建設を決議して医学部教授会の承認を求めたが、それはかなわなかったという。追悼碑建立の趣旨には「近い将来・・・この碑が医学部構内に移築されることを期している」と記されているが、それからすでに13年、碑は依然、元の仮の地に置かれたままとなっている。

また、上記の文章でも言及されている、益井邦夫「学徒慰霊碑余話」(『明治聖徳記念学会紀要』復刊第44号、2007)は下記のURLからpdfで読むことができます。

http://www.mkc.gr.jp/seitoku/pdf/f44-29.pdf

 目を学外に転じて他大学を見ると、多くの大学が慰霊碑の建設も祭儀も行っていないようである。先般、大学史研究の一環として戦前からある大学五十五校(女子大学も含む)を抽出して設問した結果である。建立している大学は次の十六校であった。

 ▽慶應義塾=「平和来るの像」昭和三十二年十二月一日、昭和七年卒業生有志建立、「還らざる学友の碑」平 成十年十一月七日、大学建立、三田キャンパス▽成蹊大学=「慰霊ブロンズ碑」昭和三十九年九月十三日、大学建立▽拓殖大学=「拓魂碑」昭和四十三年十一月三日、 学友会建立、八王子キャンパス▽東京大学=「東京大学 戦没同窓生の碑」平成十二年五月二十七日、本郷キャンパス正門前、「東京大学医学部戦没同窓生の碑」平成十三年五月二十七日、同弥生門前、ともに東京大学医学部戦没同窓生追悼基金東京大学鉄門倶楽部)建立▽東京農業大学=「満州湖北農場殉難者之碑」昭和五十二年五月 十四日、大学建立▽東北大学=「英魂碑」昭和四十二年五月二十七日、仙台市青葉区星陵町、東北大学医学部艮陵同窓会建立▽東洋大学=「平和祈念之碑」平成十七年 十一月十二日、校友会建立、白山キャンパス▽日本体育大学=「戦没者慰霊碑」昭和三十三年四月二十六日、大学建立、深沢校舎▽明治大学=「明治大学戦没学徒忠霊殿」平成十八年十月九日、校友会新潟支部建立、新潟県護国神社境内▽立教学院=「立教学院平和祈念の碑」平成十三年十一月一日、碑設置有志の会建立▽早稲田大学 =「早稲田大学戦没学生之碑」昭和二十二年七月十二日、愛知県豊川海軍工廠跡、「平和祈念碑」平成二年十月二十一日、大隈庭園、ともに大学建立▽関西大学=「慰霊碑」昭和五十一年四月七日、千里山キャンパス、有志建立▽関西学院=『旌忠(せいちゅう)碑』昭和十五年二月十八日、 教職員・学生・生徒同窓建立、「旌忠碑」プレート平成十三年十月三十日、碑検討委員会「プレート起草」委員会設置、西宮キャンパス▽皇學館=「神宮皇學館大學戦没学徒顕彰碑」(防人の像)平成十八年二月十一日、法人建立、「六角講堂」跡地▽長崎大学=「教育学部」昭和三十四年八月九日、長崎市文教町構内、同窓生建立(原爆犠牲学友五十四名の追悼)、「医学部」 ― 初代・昭和二十年十一月、二代目・昭和二十二年十一月十二日、三代目・昭和二十七年十一月、長崎市坂本構内、職員・学生・有志建立(原爆犠牲の職員・学生等の慰霊)▽立命館=「立命館大学戦没学生慰霊碑」(勤労動員)、愛知県豊川海軍工廠跡、建立時期不明、大学建立。

「案外少ないな」という印象です。当時、戦没学徒のいない大学なんてなかったと思うのですが、東大医学部で見られたような力学が働いたのでしょうか…?

韓国の大学だと、4.19革命とか6月抗争のような民主化運動の犠牲者の慰霊碑をよく見かけますが、もしかしたらそれと比較することができるかもしれません。

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ちなみに、光州の全南大や朝鮮大には5.18の慰霊碑が、また釜山大には釜馬抗争の記念碑があります。

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