東京大空襲70年、東日本大震災4年

東京大空襲が3月10日、東日本大震災が3月11日ということで、この2日間は東日本において併せて長く語り継がれることになるでしょう。

とりわけ死者との関わりにおいて。

いまだ2500人以上が行方不明 震災から4年(03/11 05:53)

 東日本大震災から11日で4年です。岩手、宮城、福島の被災3県を中心に、いまだ2500人以上の行方が分かっていません。

 警察庁のまとめによりますと、死亡が確認された人は、岩手、宮城、福島など12の都道県で、1万5891人となっています。福島県では去年、がれき集積場で見つかった頭部などの骨のDNA鑑定の結果、新たに浪江町の中学1年の女子生徒の身元が判明しました。一方で、いまだに行方が分からない人は、被災3県を中心に合わせて6つの県で2584人に上っています。

http://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000046075.html

東日本大震災4年:身元不明、依然18遺体 「遺骨に花を」全国から寄付 /宮城
毎日新聞 2015年03月11日 地方版


身元不明などの遺骨が仮安置されている部屋で献花する県警の捜査員ら=仙台市青葉区で、佐々木順一撮影

 ◇捜査員、全員の特定誓う

 東日本大震災津波で多数の犠牲者が出た岩手、宮城、福島の3県で、発生から4年がたっても身元が分からない遺体が83体あり、墓地や寺院に仮安置されている。「遺骨に花をあげてください」。身元特定に取り組む宮城県警の捜査班には、そんな手紙とともに寄付が届く。捜査員らは10日、仮安置所で献花。改めて全員の身元特定を誓った。【伊藤直孝】

 午前10時、仙台市青葉区の市営葛岡墓園管理事務所。線香のにおいが漂う10畳間に遺骨の箱が並ぶ。そのうち二つには「57−RC4」「55−RA1」と書かれた紙が張られていた。震災後、海中などで見つかった身元不明の部分遺骨だ。金野芳弘警部(61)ら捜査員3人は、市職員らとともに白いユリなどの花束を置き、両手を合わせた。

 県警は3日現在で震災犠牲者9519人の身元を特定したが、なお18遺体の身元が分からない。また手足などしかない部分遺骨も約80柱あり、合わせて県内10カ所で仮安置されている。

 身元特定に取り組むのは8人の専従捜査班。「情報は年々少なくなる。捜査員の発想力が問われている」(県警幹部)といい、最近では時計の裏ぶたに書かれた修理者のイニシャルや、入れ歯の製造記録に着目し、身元特定にこぎつけた。

 そんな捜査班に最初に寄付が届いたのは2012年11月だった。「震災後、何もできなかった私がせめて皆様に一杯の温かい物をと思い、送らせていただく」。「南十字星」を名乗る手紙には、現金3万円が同封されていた。「少しの金額ですがお花でもお供えしていただければ幸いです」「行方不明者のご家族のお気持ちを考えると心が痛みます」……。徳島県美馬市に住む女性からは寄付が計7回にわたり送られてきた。

 新聞記事で捜査班の存在を知り、13年1月に現金を送った相模原市南区の関敏明さん(80)は「仙台には友人もおり、人ごとではない。少しでも捜査員の方に感謝の気持ちを表したかった」と言う。

 これまでに届いた寄付は計12件、約27万円に上り、県警は全て身元不明遺骨への花代に充てた。今回も11日までに全10仮安置所に献花する。10日に献花した捜査班の千葉直樹警部補(39)は「全国の皆さんの善意に勇気づけられる。一人でも多くご家族のもとに戻れるよう、努力していきたい」と話した。

http://mainichi.jp/area/miyagi/news/20150311ddlk04040003000c.html

東京大空襲、火葬場足りず仮埋葬 身元不明の死者2万人
渡辺洋介 2015年3月10日05時01分


東京空襲犠牲者遺族会会長の星野弘さん。北十間川では、川に浮かぶ遺体を引き揚げたという=東京都墨田区、小玉重隆撮影

 無数の焼夷(しょうい)弾による猛火の夜が明けると、焦土と化した下町が姿を現した。路上には焼死体が折り重なり、川面には女性や子の遺体が浮かぶ。約10万もの犠牲者は、身元確認も不十分なまま、公園や寺院に「仮埋葬」された。東京大空襲から、10日で70年――。

特集:戦後70年

■「忘れたら死者浮かばれない」

 東京スカイツリー(東京都墨田区押上1丁目)の展望台。東京空襲犠牲者遺族会の星野弘会長(84)は9日、350メートル下の北十間(きたじゅっけん)川に視線をおとした。70年前、遺体を収容した場所だ。

 「あの川です。20歳ぐらいの母親の髪を、1歳ほどの女の子が両手でつかんで離さない。目を開け、まるで生きているようだった」

 東京大空襲では一晩で約10万人が亡くなったとされる。都は空襲による死者数を約2万人と予想。一方、都の火葬場の能力は1日500体に過ぎず、棺(ひつぎ)は1万人分しかなかった。身元を確かめた上での火葬は不可能で、埋葬場所も足りず、公園や寺院が仮の埋葬地となった。軍や警察に加え、受刑者や星野さんのような少年もかり出された。

 星野さんは本所工業学校2年生で14歳。向島区(現・墨田区)の自宅は全焼し、親族2人を失った。担任から「焼け跡整理」を命じられたが、実情は仮埋葬への動員だった。

 焼けたトタンに直径数ミリの太めの針金を通し、担架にした。柄の先に鉄の穂先を取り付けた鳶口(とびぐち)を遺体の背骨に引っかけ、乗せる。

 「肉にはひっかからず、ズルッと切れるだけ。背骨や首の骨を狙わないと運べませんでした」

 2人1組で、針金を肩にかけ、ズルズルとトタンにのせた遺体を引きずった。行き先は数百メートルから数キロ先の錦糸(きんし)公園と隅田公園。遺体が地面にこすれ、足首の先や手首から先がもげた。

 公園には縦、横、深さがいずれも2メートルほどの穴が掘られていた。トタンの両端を持って傾け、遺体を落とす。作業は春まで続いた。

 ともに仮埋葬を経験した友人たちは「思い出したくない」「俺はそんなことはやっていない」と口をつぐむ。星野さんにも仮埋葬の悪夢で目が覚めたり、酒に頼ったりする日があった。それでも、話さねば。

 「忘れてしまったら、死者が浮かばれない」

■仮埋葬地80カ所わからず

 都が1953年に作った「東京都戦災誌」には、死者数として「10万」の数字がある。しかし、都が遺族からの申告でつくる「東京空襲犠牲者名簿」の登録人数は8万324人しかいない。名簿作りは99年に始まり、翌年には6万8072人分が集まった。一方、遺族の高齢化などから新たな登録人数は減少。昨年申請を受け付け、今年新たに登録された人は、初めて1年間で200人を切った。

 約2万人分の氏名がわからない要因の一つが、身元確認の不十分なまま行われた仮埋葬とみられる。戦災誌には「いつ迄(まで)も路上においておくことは当時の都民の士気にも関係することであったし、早急に人目にふれぬ処へ運んで了(しま)うことが必要であった」とある。

 戦災誌によると、都内の仮埋葬地は約150カ所。だが、特定されている仮埋葬地は71カ所だけだ。残る約80カ所について都は、「資料がなく、把握できていない」としている。

 仮埋葬された遺体は、48年度に掘り起こしが始まり、火葬された。3年間の都の事業で「改葬」と呼ばれる。85年に都の外郭団体がつくった「戦災殃(おう)死者改葬事業始末記」に、都職員のこんな証言がある。

 「死人の膏(油)はひどいもので、手を洗ってもおちない。手袋をはめていても」「頭の毛にはポマードもつけられない。屍臭(ししゅう)がポマードの油にまで染みこんでしまう」「異臭のため気持(きもち)がわるくなって倒れそうになる。そのとき、お線香を立てると、その臭いが消える。私は初めて線香の効力の大きなことを感じた」

 都の「失業対策時報」第6号(51年発行)にも、錦糸公園での改葬で日雇い労働者50〜60人が「どろどろになった土を搔(か)きわけて、人骨を大きな寝棺の中に拾いあげている」とある。

 東京大空襲・戦災資料センター館長で作家の早乙女勝元(さおとめかつもと)さん(82)は「すべての仮埋葬地で改葬がされたのかは不明確で、いまも物言えぬ死者が土の中に埋まっている可能性がある」と指摘。「当時、民間人や戦闘員の命は鴻毛(こうもう・おおとりの羽毛)よりも軽いとされ、国は国民の埋葬さえ、不十分なかたちで行った。すべての弔いを終えるまで、死者への償いは終わらない」と話す。(渡辺洋介)


画家・狩野光男さんの再現画。星野弘さんが遺体を収容した、北十間川での体験に基づく=狩野さん提供


主な仮埋葬地

http://digital.asahi.com/articles/ASH387W7ZH38UTIL02C.html