【釜山の風景】【福知山の風景】峨眉洞碑石マウルと福知山城

昨日の門峴洞・アンドンネ壁画マウルの話の続きになりますが、釜山で墓地がマウルになったもう一つの場所である峨眉洞にも、足を運んできました。以前にも行ったことがあるので、2度目の訪問となります。

関連の過去記事はこちらです。

d.hatena.ne.jp

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この場所について私が知ったのは、「釜山でお昼を」の記事を読んでのことでした。

街角の風景(釜山広域市 西区峨媚洞) - 釜山でお昼を

今回は、甘川文化マウルとあわせてこの周辺を歩き回ったのですが、まずは峨眉洞の話をすることにしましょう。

地下鉄1号線の土城駅を降りて、峨眉洞方面に向かいます。

峨眉市場を左手に見て突き当るロータリーに面した派出所の、そのすぐ後ろに見えるこの建物は、かつてこの界隈が墓地だった頃に葬儀場があった場所だそうです(こちら参照)。この建物を右に、急斜面に広がる峨眉2洞の建物を左に見ながら、マウルバスの通る道を進みます。


この左手の斜面の住宅密集地に分け入ってみれば、現在もやはり、かつて墓地だった痕跡をそこここに見ることができます。




ここは特に、元々の囲いの跡がわかりやすく見えます。お墓の囲い部分を土台に家を建てた名残りです。前回の訪問時にも見ました。


で、このあたりは以前も重点的に回ったのですが、実のところ、「峨眉洞碑石マウル」として案内されているのは、ここから若干ずれたエリアのようです。

私は今、マウルバスの通るカチコゲ路から峨眉2洞に入りましたけど、碑石マウルの案内表示はその一筋上、峨眉路の周辺に見ることができます。

ただ、そのへんの道は非常に入り組んで曲がりくねって迷いやすいので、ここは一つ、甘川文化マウルの側から回り込んで、アクセスし直してみるとします。

甘川文化マウルを目指すときに目印となるのは、高台にある甘川初等学校です。そこから少し下った陸橋の下に、甘川文化マウルと峨眉洞碑石マウルを案内する大きな看板を見ることができます。

右に行くとすぐ甘川文化マウルの入り口があります。が、ここでは左方面に注目します。

このネギが、峨眉洞碑石マウルのゆるキャラ「ソギ(석이)」です。ひねりなしの「石」という意味ですね。


こういうことも書いてあります。

まあともあれ、このネギ石くんを追いかけていけば、碑石マウルにたどり着くことができます。

先ほどの案内看板に書かれていた説明文は、マウルの各所にも掲げられています。どれか一つを読めば、それで十分です。

ところどころ見かける案内表示に導かれていけば、カチコゲ路からは少し遠い場所にある碑石をいろいろと見ることができます。前回は、こちらのエリアをちゃんと回り切れてませんでしたねえ。



何にせよ、ここは住宅地です。見て回るにしても、静かにしましょう。



少し降りてきて、通りに面したところにあるこの家。これはまた、すごいですねえ。もともとのお墓の石垣や囲いがそのまま残っていて、「その上に家を建てた」という状況がはっきり視認できます。廃屋化しているので、いつまで見られるか、定かではありません。





ここから少し路地を分け入ったところに、壁画マウルのノリで「やっちゃった」場所もあります。個人的には趣味が悪いと思いますけど、碑石そのものはちゃんと確認することができます。






先ほど見たように、釜山市西区は、こうして方々に見られる碑石を集めて追慕の空間を造成する予定にしているとのことです。朝鮮戦争以来の、どうにかこうにか生きてきた峨眉洞の人々の生活の歴史を、ようやく振り返る段階に来た、と言えるかもしれません。


ところで、この峨眉洞碑石マウルについては、先に見た「釜山でお昼を」の他にも、こちらのサイトがわかりやすく紹介しています。こちらの韓国訪問記は、どれもディープで実に読み甲斐があります。

worlddeep.info

最近は、そこそこ知られてきたみたいで、ブログの訪問記もいくつか引っかかってきます。

ただ、それとは別に、どうにも引っかかる書きぶりの記事も、この訪問の前に見かけていました。これなんですけど。

tocana.jp

まあ、全国から200万人と言われる避難民が釜山に殺到した朝鮮戦争当時のことを想像してみれば、門峴洞や峨眉洞のことも多少は「理解」できると思うのですけどね。


とりあえず、私がそこで連想したのは、転用石のある福知山城でした。

kojodan.jp

両丹日日新聞2009年3月15日のニュース
福知山城(下):石垣に転用石、日本一の井戸も

 天守閣再建、周辺整備が整った福知山城には見どころがいっぱいある。天守台から本丸にかけての石垣は野面積(のづらづみ)で、大小の石とともに、転用石が使われているのが特徴。この様式を採り入れているのは、現存の城では福知山城を含め3カ所だけという。

 転用石は五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)の一部、石臼、石仏、灯ろうなどで、石垣の表面だけでも450個から500個が確認されている。中でも1359年(延文4年)の銘が刻まれた五輪塔が一番古いとされる。石垣用の石が足りなかったという説のほか、敵だった武将の墓をつぶし、その一部を使用することで、強い権力を示すために用いたといった説もある。

http://www.ryoutan.co.jp/news/2009/03/15/000397.html

釜山から帰ってきてすぐ、福知山へ行く機会もありましたので、ここについでにまとめておくことにした次第です。









つまるところ、意図や目的や事情はどうあれ、こうした石物が転用されたり遺棄されたりするのは、そう特殊なことではない、と言えるんでしょう。意味もなくことさらぞんざいに扱うこともないですけど、そこまで気に病むことでもない、そんなところだと思います。


追記:兵庫城のこの記事も、転用石の話でしたね。

d.hatena.ne.jp