【北京の風景】2度目の大瓦窑站(大瓦窯駅)から盧溝橋への道・2:中国人民抗日戦争紀念館
前回の続きで、中国人民抗日戦争紀念館を訪れた時の話です。
【北京の風景】2度目の大瓦窑站(大瓦窯駅)から盧溝橋への道・1:宛平城まで - 大塚愛と死の哲学
敷地内への入り口はこちら。現在は入場無料です。説明書きは中国語と英語になってますね。
まあまあそう身構えずに。肩に力が入っている人は、楽にしてください。
ここでは、中国の公式的な歴史観に基づいて構成された、足かけ15年にわたる抗日戦争に関する様々な展示を見ることができます。まずは知ることから、始めましょう。
ここは盧溝橋のすぐそばにある施設なのですが、1937年の盧溝橋事件から始まる全面戦争の前の、1931年の柳条湖事件に始まる「九一八事変」や東北の抗日戦争についての展示もあります。
その後、「七七事変」についての展示が続きます。天安門事件前の1987年の開館ですが、展示は古びたものではなく、現代的なものになっています。開館以来、展示形式や内容の更新が繰り返されてきていると思われます。
平日にもかかわらず、団体客も含めて観覧者はけっこういます。
全体で8つの「部分」に分けられている中で、「第四部分」が「日軍暴行」に充てられています。
言葉を替えれば、この巨大な歴史記念館の中で、日本軍の蛮行の告発に充てられているのは全体の八分の一に過ぎないということでもあります。中国人民の「偉大な勝利」と「歴史への貢献」を明らかにすることを目的とする施設ですから、力の置きどころの配分としてはそんなものです。
中国人民の「勝利」と「貢献」とは何を意味するのか。この紀念館の展示を貫くテーマはそちらにあります。
強調されるのは、中国人民の勝利とは「反ファシズム統一戦線」たる連合国の勝利に他ならず、その貢献とは普遍的な「正義」への貢献である、という文脈です。日本を相手とした抵抗戦争の勝利は、そのような文脈へと回収されていきます。「連合国の一員」という立場からすれば、極めてスタンダードな歴史観だと言えるでしょう。
その意味で、この紀念館が示している中国の歴史的見解は、世界的に見て決して特異なものでも孤立したものでもありません*1。
驚くような新事実を期待するとすれば肩透かしを食らうかもしれませんが、来て見てみればそれなりに学ぶヒントも少なくないところであると思います。
ところで、これだけの展示を展開しながら、売店には図録が見当たらなかったんですけど、ないんでしょうかねえ。少々荷物が重くなっても、あれば買ってたところなのですが。
もしかしたら、ウェブで見ろ、ってことなんでしょうか。とりあえず、展示で使われていたパネルは、こちらのウェブサイトで見れるようです。
ちなみに、こちらの中国人民抗日戦争紀念館とすぐそこの盧溝橋には、日本の総理大臣として村山富市と小泉純一郎の二人が訪れています。
村山富市元首相に聞く 隣国との和解で拓かれる未来--人民網日本語版--人民日報
更新時間:2001年10月09日13:15(北京時間)
小泉首相、盧溝橋と抗日戦争記念館を見学日本の小泉純一郎首相は8日午前北京入りし、北京郊外にある盧溝橋と中国人民抗日戦争記念館を見学した。小泉首相は見学後、過去の侵略戦争で犠牲になった中国人に対して心からのおわびと哀悼の意を示したうえで、過去の歴史を反省する必要性を強調。日本の首相として今後も日中友好のために全力を尽くしていく考えを示した。
小泉首相は江沢民国家主席や朱鎔基総理と会談を行った後、同日中に帰国した。
「人民網日本語版」2001年10月9日
抗日戦争記念館 習仲勲氏が建設を指示、村山富市氏も見学
人民網日本語版 2015年07月07日08:51今日は全民族抗日戦争勃発78周年。中国人民抗日戦争記念館では抗日戦争勝利70周年記念展示の開幕式が行われる。盧溝橋の抗日戦争記念館は1987年7月6日に完成。拡張を繰り返し、昨年の時点で収蔵品は一級文物百点余りを含む2万点余りに上る。新京報が伝えた。
■習仲勲氏ら中央指導者が建設を指示
新京報:記念館の建設計画はいつ始まったのか。
抗日戦争記念館の創始者郭景興氏:1982年6月に北京市の人民代表大会、政協、文物局の指導者がそれぞれ盧溝橋を訪れて状況を把握し、盧溝橋史料展示館をさらに拡充する方針を打ち出した。その後数年間に中央と北京市の指導者が繰り返し盧溝橋を視察した。習仲勲氏、胡喬木氏ら中央指導者も指示を出し、抗日戦争記念館の建設に同意した。1984年、文化部が中心になって中国人民抗日戦争記念館を建設することがついに決定された。
■29軍高級将校を訪ねて日本軍が戦争を挑発したことを裏付け
新京報:建設以外に、開館前に史料展示面ではどのような準備を行ったか。
郭景興氏:抗日戦争初期にわれわれは作戦のみを重視しており、残した記録は少なかった。一方、日本の右翼学者は多くの執筆活動を行い、「七七事変」(盧溝橋事件)は中国側が先に発砲したと是非を転倒していた。私は史実を整理することが一刻の猶予もならない任務であることを感じた。当時すでに「七七事変」から50年近くが過ぎ、関係者の大部分が亡くなっており、時間を無駄にせずに、存命の重要人物を訪問しなければならなかった。
私は1982年から七七事変の史料の整理に着手した。七七抗戦の主力軍は29軍だ。私は河南省固始県に行き29軍の高級将校・金振中氏を訪問、南京に行き29軍軍訓団の朱軍第三大隊副隊長を訪問、山西省太原市に行き29軍軍訓団の周樹一大隊長を訪問したほか、「七七事変」の目撃者、永定河管理処の元労働者も訪問した。訪問と資料の整理を通じて、七七事変の真相を明らかにした。
■村山富市氏が記念館を見学
新京報:深い印象を受けた来館者は。
郭景興氏:1995年に日本の村山富市首相が訪中した。同年5月3日に中国人民抗日戦争記念館を見学し、「歴史を直視し、中日友好、恒久平和を祈る」との言葉を残した。私は退職後、1998年に訪日した際、村山氏に再会した。話を交わす中で、村山氏は抗日戦争記念館を見学して心を揺り動かされたことに再び触れ、日本は侵略の歴史を反省しなければならないと語った。(編集NA)
「人民網日本語版」2015年7月7日
*1:つまり、中国を相手にいわゆる「歴史戦」を仕掛けるとしたら、「その相手は独り中国のみ」とはならない、ということです。繰り返しになりますが、中国は依然として「連合国の一員」です。