あれは何年前のことでしたかねえ。ナビスコカップの浦和レッズ戦で途中出場して、「いい選手がトップに上がって来たなあ」と思ったのは。
それからなかなかガンバでの出場機会が得られないまま、ジェフ千葉・セレッソ大阪と渡り歩いて成長してガンバに復帰して、今は10番を背負うまでになりました。苦労人としてのキャリアを積んだ天才を、今こそ日本代表で見てみたいと思うのです。
【日本代表ストーリー】欧州で飛躍した同世代の香川、清武と同じ舞台へ。Jを渡り歩いた倉田秋が国内で身に付けたものとは?
サッカーダイジェスト編集部 2017年03月22日プロ入りから3年間はレギュラーを奪えず「当時は腐っていましたね」
2015年の東アジアカップ以来の招集となった倉田。長谷部が離脱したボランチでの起用があるか。写真:小倉直樹(サッカーダイジェスト写真部)28歳――。キャリアのピークとも言える年齢で、倉田秋はとうとうかつてのライバルたちと同じ舞台に立つチャンスを掴んだ。ロシア・ワールドカップがかかるアジア最終予選のUAE戦とタイ戦のメンバーに選出されたガンバ大阪のプレーメーカーは次のようにコメントした。
「大事な試合に選ばれて光栄です。ガンバを代表していくので、結果を出して、代表に定着できるように全力で頑張ります。ワールドカップ出場のためにも負けられない試合なので、そこで自分の力を出せるように、練習からアピールしたいと思います」
2015年に多くの新戦力が選出された東アジアカップで日本代表入りは果たしているが、当時は海外組抜きのメンバー。最終予選というシビアな戦いのメンバーに選ばれたことは、改めてハリルホジッチ監督の構想の中に、食い込んできたことになる。
A代表には15年まで縁がなかった倉田だが、かつては年代別代表の常連だった。倉田と同じ1988年生まれでG大阪のチームメートである米倉恒貴は、18歳の頃にU-20日本代表の候補合宿で倉田とともにプレーした際の衝撃を、こう語ったことがあった。
「俺らの年代では、秋は本当に別格でした。秋と(香川)真司、遠藤康(鹿島)はずば抜けて巧かった」06年のクラブユース決勝でゴールを決め、チームを優勝に導いて大会MVPにも輝いた倉田は、高校2年生でC大阪に入団した同学年の香川真司(89年3月生まれ)ととともに、世代を代表する存在だった。
07年、倉田は高い攻撃力を誇るボランチとして、ユースからトップチームへと昇格。しかし当時のチームは遠藤保仁、二川孝広、橋本英郎、明神智和ら代表クラスを揃えた「黄金の中盤」が盤石さを誇り、経験不足の若いMFには入り込む隙はなかった。途中出場などでチャンスを与えられたことはあったが、プロ入りから3年間はレギュラーを獲得できず、自身も「当時は腐っていましたね」と振り返る有様だった。
一方で、香川はプロ2年目からC大阪でポジションを掴み、一気にブレイク。19歳でA代表デビューし、海外移籍も果たして順調に成長していった。その陰で倉田は年代別の日本代表からも次第にフェードアウトし、香川とは大きく水を開けられてしまうのだ。
移籍によって出場機会とライバルに恵まれ、古巣復帰で新境地を開拓。
G大阪では複数のポジションをこなすマルチロールとして不可欠な存在へと成長した。写真:佐藤明(サッカーダイジェスト写真部)しかし、プロ入り後なかなか芽が出なかった倉田にも転機が訪れる。10年、J2千葉にレンタル移籍するとボランチから2列目にコンバートされ、29試合・8得点と結果を残す。さらに翌11年には、再びレンタルでJ1セレッソ大阪へと加入。ここで倉田は、新たなライバルと出会う。
当時のセレッソは、ドルトムントに移籍した香川に代わり、U-22日本代表の中心だった1歳年下の清武弘嗣が、中心選手へと成長を遂げようとしていた。しかし倉田は、春季キャンプで調子を落としていた清武を凌ぐパフォーマンスを披露。G大阪とのJ1開幕戦では、清武をベンチに押しやってポジションを奪取。この試合では自身のJ1初ゴールを挙げた。その後はレギュラーに復帰した清武とも抜群のコンビネーションを見せるなど共存し、この年33試合・10得点。結果を残し、翌12年にはG大阪へと復帰することになった。
そして古巣に復帰した倉田は、さらにもうワンランク上の選手へと成長する。千葉、C大阪で磨いてきたドリブルを武器に果敢に仕掛けるアタッカーとしての能力だけでなく、様々なポジションを経験することで、複数の「引き出し」を備えた中盤のオールラウンダーとして新境地を開いていくのだ。長谷川健太監督が13年に招へいされると、J2を戦ったこの年は主に2トップの一角で起用され、長い距離を走ってディフェンスラインの裏を狙うフリーランニングを磨いた。
翌14年にJ1の舞台に復帰すると、4-4-2のサイドMFとして指揮官の求める上下動を身につけ、豊富な運動量と攻守に労を惜しまないプレースタイルで、3冠にも大きく貢献。さらに16年にはユース時代の本職・ボランチでも再びプレーするようになり「モドリッチみたいな選手になりたい」とレアル・マドリーのクロアチア代表MFを理想に挙げるなど、プレースタイルの幅を広げていった。
今季もシステムによって、トップ下、インサイドハーフと対応し、中盤より前ならすべてのポジションをこなすマルチロールぶりを発揮。倉田はG大阪復帰後の5年で選手として大きな変貌を遂げたのである。
今季は自ら希望してG大阪の10番を背負う。
「真司ともキヨとも一緒にやったことあるし、ほんまに彼らはいい選手ですよ。でも、一緒にやったからこそ、俺だってあいつらに絶対負けている、とは思わないし、勝負できると思ってます。だから、俺も代表、入りたいんですよ」
かつて香川や清武が海外で飛躍し、代表で活躍する姿に、倉田はこうストレートに語っていたことがあった。「海外でプレーしないと代表には入れない」という焦りから、海外移籍を模索していた時期もあったが、現在はそんな思いを封印し、今季からはG大阪で自ら希望して背番号10も背負った。
そしてついに、G大阪でのプレーが認められて、かつてのライバルたちとともに日本代表入りを果たした。Jを渡り歩き、香川とも清武とも違う魅力を備えた、タフに戦えるたくましいMFへ成長した倉田。今まさに、代表への生き残りをかけた勝負の時を迎える。