【清州の風景】忠北大学校の「天地神壇」碑(と「大学移転頌功」碑)

清州「天地神壇」碑を巡る街歩き、鉢山公園に続いては忠北大学校です。

blue-black-osaka.hatenablog.com

歩いて2キロ余り、公共交通機関を探して待っている暇があれば着いてしまいそうな距離なので、暑い中ですが歩くことにしました。

f:id:bluetears_osaka:20190912113150j:plain

この立派な正門は2016年に完成したみたいですから、ずいぶん昔に訪れた時にはなかったはずです。

f:id:bluetears_osaka:20190826104505j:plain
f:id:bluetears_osaka:20190826104534j:plain

忠北大は、忠清北道の拠点となる総合国立大学ですから、当然のことながらデカいのですが、清州の中心地にあるキャンパスは、ここまでの道のりと同様、わりと平坦で移動はしやすいのが助かります。

f:id:bluetears_osaka:20190826104647j:plain
f:id:bluetears_osaka:20190826105402j:plain

目的のブツがどこにあるのかという情報が乏しくて、暑い中で探し出すのに少し苦労しましたが、結論から言えば大学博物館に接した野外展示広場的なところにあります。

f:id:bluetears_osaka:20190826110021j:plain
f:id:bluetears_osaka:20190826105951j:plain
f:id:bluetears_osaka:20190826111152j:plain

この企画展、めっちゃ面白そうやったのに、月曜日の閉館日に来てしまいました…失敗やった。

残念ながら閉館して入ることすらできなかったこの建物の目の前に、目的地があります。

f:id:bluetears_osaka:20190826111008j:plain

手前の方から行きましょうか。

f:id:bluetears_osaka:20190826110942j:plain
f:id:bluetears_osaka:20190826110639j:plain

似たような四角い石碑が二つ並んでいます。一つは1971年の総合運動場改修記念碑なので措くとして、もう一方は、「前任金鶴応知事 大学移転頌功碑」とあります。

f:id:bluetears_osaka:20190826110655j:plain

この碑こそ、この記事で話題にしていたあれです。これもついでに探すつもりでいたんですけど、同じところにあったんですね。

blue-black-osaka.hatenablog.com

裏にもいろいろ書いてあるけど、斜面が迫ってる上に快晴の度が過ぎて、眩しくて読めん。

f:id:bluetears_osaka:20190826110719j:plain
f:id:bluetears_osaka:20190826110728j:plain
f:id:bluetears_osaka:20190826110755j:plain

とりあえず、「開校20周年」がどうたらこうたら書いてあって、「1971年9月27日」とか書いてあるように見えるんですけどね。1951年の清州初級農科大学の設置を「開校」と位置付けるなら、そう言えるでしょう。

とすると、前にも見たこのオーマイニュースの記事が「1960年の4.19革命の過程で金鶴応知事の頌功碑が土中に埋められた」としているのは、つじつまが合わない話になりますね。

www.ohmynews.com

金鶴応が「3.15不正選挙」に関与したことで1961年に有罪判決を受けたことは事実のようですが、それとこの碑との関連についてその記事で書かれていることは、どうやら推測に過ぎなかったようです。この記事を書いた「忠北人ニュース」の記者さん、もしかしたらこの碑の裏にいろいろ書いてあることに気付いてなかったのかもしれません。

www.cbinews.co.kr

この碑の話はそれくらいにして、もう少し先に歩を進めます。

f:id:bluetears_osaka:20190826110211j:plain

ああこれこれ。これです。

f:id:bluetears_osaka:20190826110349j:plain
f:id:bluetears_osaka:20190826110224j:plain
f:id:bluetears_osaka:20190826110506j:plain
f:id:bluetears_osaka:20190826110234j:plain

천지신단비(天地神壇碑)
충청북도 청주시 흥덕구 사직동
일제강점기(日帝强占期, 1935년 5월 9일 설치) Japanese occupation period
이 비는 원래 충북 청주시 흥덕구 사직동 충혼탑 입구에 있었던 것으로 일제가 미신 타파를 명분으로 설립을 강제하였는데, 사실은 경외의 대상인 자연신을 내세워 조선 농민의 정신을 통일하고 장악하기 위한 식민지 농촌 사상 통제 정책의 산물이다.
일제는 이 비의 설치 장소와 크기, 조경 방식과 춘추 제전 방식까지 제시하였는데, 1930년대 농촌진흥이라는 미명하에 자행된 총력적인 농촌 통제 양상을 잘 보여준다.

「この碑は元来、忠清北道清州市興徳区社稷洞忠魂塔の入り口にあった」という説明が見えます。つまりこれ、もともとここにあったわけではなく、清州の忠魂塔の入り口にあったものです。

では、そこは今、どうなっているのか。元ネタのオーマイニュースがすでに答えを出してはいるのですが、そこは見なかったことにして、その現地を自分の目で確認することにしましょう。

いったん切ります。