仁川・富平の旧三菱社宅を東京新聞が報じる。

これのことですね。

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【国際】韓国・三菱社宅 保存求める声 植民地遺構 仁川の原点
2020年1月27日 夕刊

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三菱社宅の保存運動をしている金玄会さん=いずれも韓国・仁川市富平区で

 日本の植民地時代に建てられた社宅の撤去を巡り、韓国・北西部の仁川(インチョン)で論議が起きている。行政側は老朽化した建物を撤去する方針だが、「負の歴史」を伝える文化遺産であり、建築史的にも重要な建物を現地で残すべきだという声が出ている。(ソウル・境田未緒、写真も)

 はがれた土壁、一部が崩れ落ちた屋根-。ソウル近郊の仁川市富平(プピョン)区の一角に残る木造長屋。「三菱社宅」と呼ばれ、以前は二十八棟ほどあった。取り壊しが進み、残るのは六棟。「まだ六世帯が住んでいます」。約二十平方メートルの長屋の一軒を事務所にして社宅の保存運動をしている金玄会(キムヒョンフェ)さん(58)が教えてくれた。

 三菱社宅の歴史は一九三〇年代後半にさかのぼる。仁川大地域人文情報融合研究所の李妍〓(イヨンギョン)責任研究員によると三〇年代半ばまで、富平は日本陸軍の射撃訓練場と駅付近以外は、田んぼや畑ばかりだったという。

 ソウルの人口増や軍事需要の高まりで、富平に工業都市が計画され、釜山(プサン)で鉱山機械をつくっていた日本企業「弘中商工」が三九年に進出。朝鮮半島出身者が大多数だった工員用の社宅を含む住宅団地を形成した。四二年に三菱製鋼が工場や社宅を引き継いだ。

 富平区職員だった金さんが三菱社宅に関心を持ったのは、別の軍需工場に徴用された叔父がいたため。歴史を調べるうち、「負の歴史」は、いまに続く工業都市・富平の原点でもあると知った。日本人とは銭湯が違ったり家の大きさが違ったりもしたが、貧しい日本人もいて、交じり合って暮らしていたという。

 戦後、日本の軍需工場は米軍に引き渡されて基地に。三菱社宅は個人に払い下げられた。基地で働く人が住むなど比較的豊かな地域だったが、建物の老朽化で人もいなくなり、地元で景観や安全性の問題から撤去を求める声が強くなった。

 富平区が土地を買い取り、公共施設などを建てており、残る六棟のうち四棟はこの七月、駐車場整備のため撤去が予定されている。保存の声の高まりで区も活用法を模索。返還が決まっている米軍基地内への移転保存なども検討しているが、現地で残すのは難しい状況だ。

 李研究員は「全国にあった労働者住宅が次々になくなる中、三菱社宅は歴史がはっきり分かっており建築史的にも価値が高い」と指摘する。特に近く撤去が予定されている四棟は、共同トイレも現役で残っているなど保存状態が良いという。「都市の変化と人々が生きた証しを記録する重要な場所。建物はその場にあってこそ意味があります」

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周囲の開発が進む「三菱社宅」

※ 〓は、王へんに景

https://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/202001/CK2020012702000237.html

なお、この地区については、西日本新聞も2017年に報じています。2本の記事の時間差は3年ですが、その間にもいろいろな状況の変化があっただろうこと、察することができます。

旧三菱住宅 昔の趣なお 韓国・仁川 区が修復、保存へ
2017/2/6 17:29

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約80年間、原形をとどめて残っている三菱製鋼の旧住宅=仁川市・富平

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旧住宅の一部は壁にひびが入り、崩壊寸前だった=仁川市・富平

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戦時中の三菱製鋼仁川製作所の旧住宅保存について「歴史を残すことは大切だ」と語る宋百鎮さん

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三菱製鋼仁川製作所で製造された軍刀=富平歴史博物館

 韓国の空の玄関口、仁川国際空港がある仁川市。空港から西へ約30キロ。市最大の繁華街がある富平区に、戦時中に軍需品を製造していた旧「三菱製鋼仁川製作所」の労働者向け専用住宅の一部が残っている。1938年ごろに建てられたとされる長屋式の旧住宅について、区は戦争の歴史を伝える遺産として修復して保存し、記念館を建設する計画を進めている。(ソウル曽山茂志)

 富平駅の南側は、昔ながらの路地が多くひっそりとしている。商店街や韓国最大級の地下街があるにぎやかな駅北側とはかなり対照的だ。駅南口から徒歩約15分。アパートに囲まれた旧住宅が現れた。人けも色彩もなく、全体が沈んだように見える。「時間が止まったまま」(韓国メディア)の「サムヌン地区」。三菱の韓国語読みだ。

 瓦ぶきの長屋が4棟(約90戸)。建物の多くは屋根が落ち込み、壁も崩壊している。開いたままのドアから家の中をのぞくと、狭い台所と一間だけ。崩れた壁の中にソファや家具が埋もれていた。今にも家全体が崩れ落ちそうだ。ただ、長屋の端の一角には花壇があり、カーテンがかかった家もあった。現在も高齢者ら数十人が住んでいるという。

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 戦時中、工場で工員として働いた宋百鎮(ソンペクチン)さん(93)が旧住宅のことを覚えていた。自身は住んでなかったが、「何度も行った」と話す宋さんによると、一帯は日本人用と朝鮮人用と分かれており、長屋には主に朝鮮人技術者が住んでいた。共同浴場やおでん屋もあり「子どもたちが走り回って、にぎやかだった」と振り返った。初めて日本のビールを飲ませてもらったのも旧住宅だった。

 旧住宅は戦後、駐留米軍の音楽隊のメンバーらが住み、「韓国大衆音楽のルーツ」と呼ばれたこともあった。最大千戸以上あった旧住宅は歴史とともに大半が姿を消したが、サムヌン地区だけは残った。「朝鮮戦争後、住む場所を追われた人たちが次第に集まった」(富平歴史博物館)ことに加え、何度か浮上した再開発計画に地権者らがまとまらなかったためという。

 仁川市富平区は、2018年までに一帯約7千平方メートルを、約45億ウォン(約4億4千万円)かけて再整備する計画だ。同博物館は昨年11月末から、旧住宅の保存事業を記念した展示会を開いている。工場で製造した軍刀のほか、戦時中の工場や旧住宅の様子が分かる写真を多数展示しており、小、中学生など1日平均300人が足を運んでいる。

 同博物館の金晶兒(キムジョンア)さんによると、「戦時中の三菱の徴用といえば、日本にある工場の話とばかり思っていた」などの感想があるという。
 終戦から70年超。多くの人に忘れ去られていた長屋が来年、再び「戦争の記憶」を語り始める。

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 ●ワードBOX=三菱製鋼旧住宅

 旧日本軍の軍需工場用に1938年ごろに建設された。工場は42年に三菱製鋼が引き継ぎ、旧住宅も終戦まで使用した。戦時中には千戸分以上あり、現在も約90戸分が残る。

この記事は2017年02月06日付で、内容は当時のものです。

https://www.nishinippon.co.jp/item/o/311238/