ボリビアのオキナワからの日本の沖縄への輸出
ボリビアのサンタクルス県と言えば、ラパスとは違ってブラジルに接した低地だったはずです。日本からの農業移民が始まったのが1954年と言いますから、第二次世界大戦後の話なんですよね。開墾から67年、世代的には入植一世もまだ存命であり、二世も現役、三世から四世が育ちつつあるくらいの年月です。距離的にはとんでもなく遠いですけど、人の縁はまだリアルにつながっている状況で、こういう動きがまた、将来に向けた新たなつながりになっていくのでしょう。
オキナワ移住地
2021年02月07日14時25分オキナワ移住地 沖縄が米軍統治下にあった1954年、基地建設による耕地不足問題を解決するため、当時の琉球政府が募集した農業移民がボリビア東部サンタクルス県のジャングルを切り開いてつくった移住地。延べ3200人が入植したが、厳しさに耐えかねて多くがブラジルやアルゼンチンへと去った。現在は、約300人の移住者に加え、約900人の日系人が主に農業に従事しており、ボリビア有数の穀倉地帯となっている。第1~3次移住地があり、農地面積は母県をしのぐ6万ヘクタールに達している。(時事)
ボリビアのオキナワから沖縄へ 地球の反対つなぐ「初輸出」
2021年02月08日07時08分
ボリビア東部サンタクルス県の「オキナワ移住地」で行われた大豆の収穫(コロニア沖縄農牧総合協同組合提供)
ボリビアのオキナワ移住地で、イベントに参加する少女ら=2019年7月、東部サンタクルス県(JICAボリビア事務所提供)
【図解】ボリビアのオキナワ移住地
ボリビア東部サンタクルス県の「オキナワ移住地」に広がる大豆畑(コロニア沖縄農牧総合協同組合提供)【サンパウロ時事】沖縄出身の移民が戦後に開いた南米ボリビア東部サンタクルス県にある「オキナワ移住地」から1月末、20トンの大豆が「母県」に向けて出荷された。沖縄とはこれまで文化交流などでつながっていたが、輸出は開墾67年の歴史で初めて。関係者は地球半周を隔てた「地縁」の深まりに胸を躍らせている。
初輸出は、石垣市の畜産農家「ゆいまーる牧場」の金城利憲代表(66)の強い意思で実現した。学生時代、南米に渡る同級生を何人も見送り、自身も大阪での仕事のため故郷を長年離れた金城さんは、在外同胞への思い入れが人一倍強い。約20年前に同郷人大会でボリビアを訪れた際に抱いた「いつか二つの土地をつなぎ、『地産地消』を」という夢は、昨年2月の国際協力機構(JICA)使節団参加で実現に向かった。
関係者が知恵を絞り、最大のネックだった高い輸送費を、チリと台湾を経由するルートを開拓することにより抑え、採算ベースを確保した。オキナワの農協から大豆を月20トン調達。牧場で飼料として使い、近隣の農家にも勧めるつもりだ。将来的には豆腐、しょうゆ・みそ工場などへの販路拡大を夢見ている。
移住地側も思いは一つだ。オキナワ日本ボリビア協会の比嘉智事務局長(54)は「食うや食わずで沖縄を出た人もいる。みな頑張っていつか成功したいと思ってやってきた。大きな一歩だ」。農地不足で沖縄を出ざるを得なかった移住者が、故郷に作物を送る意味は決して小さくない。日系2世の研治・ブラボ農協ゼネラルマネジャー(46)は「母県にオキナワの作物を届けられるのは、とても特別なこと」と感慨深げだ。
もっとも、移住地からの輸出は緒に就いたばかり。個人レベルの取引で双方に実利は少なく、持続的な「ウィン・ウィン」関係構築に向けた道のりは遠い。比嘉さんは「地球の反対側から(経済的)つながりを保つのは難しい。次のステップが重要だ」と強調した。