私はこっち方面の話には疎いのでよく知らなかったのですが、遺族とのDNA型照合で、こんな風に身元が判明するんですね。
遺骨DNA型照合、全地域で 遺品ない戦没者対象―厚労省
2021年02月05日16時22分厚生労働省は5日、遺品がない戦没者遺骨の身元特定に向け、遺族とのDNA型照合作業を全地域の遺骨を対象に進めると発表した。従来は沖縄県と硫黄島(東京都小笠原村)、太平洋中部のタラワ環礁(キリバス領)に限っていた。10月をめどに遺族側からの連絡を受け付ける。
兄ちゃん、お帰り 80年ぶりの“再会”に涙 遺品なき遺骨はいま
毎日新聞 2021/2/26 20:38(最終更新 2/26 20:45) 1117文字
野村正敏さんの出征前に撮影された家族写真。右から3人目が正敏さん、左から2人目が貞之さん=野村貞之さん提供兄ちゃん、お帰り――。日本から5500キロ以上離れた太平洋戦争の激戦地・タラワ環礁(キリバス)で亡くなった旧海軍下士官、野村正敏さんの遺骨が26日、徴兵以来80年ぶりに家族の元に戻った。「つらかったろう、寂しかったろう」。8歳上の兄を慕って生きてきた弟貞之さん(92)=長崎市田上3=は遺骨を抱きしめ、待ちわびた対面に涙を流した。
「寂しかったろうね、おかえりなさい」。26日午後、自宅を訪れた長崎県の担当者から遺骨を受け取った貞之さんはそう語りかけた。正敏さんと両親の位牌(いはい)が並んだ祭壇に遺骨を置いて約1分。再び言葉を継いだ。「兄ちゃん、つらかったろうな。僕の面倒を見てくれてありがとうね」
貞之さんらは幼い頃に父を亡くし、早くから一家を支えたのが小学校を卒業して働きに出た正敏さんだった。「勉強とけんかは一番になれ」。正敏さんはそう言って貞之さんを厳しくしつけた。しかし、貞之さんが小学校に入学する際は僅かな給金をためてランドセルを買ってくれた。
造船所で働いていた正敏さんが徴兵されたのは1941年。海軍佐世保鎮守府(長崎県佐世保市)の陸上戦闘部隊だった。「兄ちゃん、死んだらだめぞ。帰ってきてね」。鎮守府の門前で貞之さんが叫ぶと正敏さんは手を上げて応えた。母には「貞之だけは学校に行かせてくれよ」と言い残した。これが別れだった。
43年11月25日、タラワ環礁の激戦で旧日本軍は全滅。約4200人が戦死した。しかし、貞之さんらの元に届けられたのは「南太平洋方面で戦死」と書かれた通知文と軍服姿の写真が入った白木の箱のみ。どこで亡くなったのかも分からず、貞之さんは兄の死を受け入れられなかった。
長崎市に原爆が落とされた45年8月9日、16歳だった貞之さんは爆心地から3・2キロの学徒動員先で被爆。大きなけがはなく家族も無事だったが、長崎の街は焦土と化した。戦後は30代で空調メンテナンス会社を設立。「人に負けるな、耐えろ」。つらい営業も兄の言葉を支えに乗り越えた。片時も正敏さんを忘れたことはなかった。
厚生労働省から「タラワ環礁の遺骨の中に正敏さんが含まれている可能性がある」と電話が入ったのは2019年9月。検体キットで口内の粘膜を採取して送ったところ、20年9月、DNA鑑定で正敏さんの遺骨と判明した。
返還された兄正敏さんの遺骨を抱え、涙ぐむ野村貞之さん=長崎市で2021年2月26日午後2時50分、徳野仁子撮影「遺品や遺骨のかけらでもいいからないかと思い続けてきた。ようやくだ」。万感の思いで遺骨を見つめる貞之さん。しかし、今も身元が分からない幾多の遺骨がある現実に表情を曇らせる。「いまだに相当の遺骨が現地に埋まっている。一人でも多く身内の元に返ってほしい」。そう語り、多くの遺族の無念に思いを致した。【今野悠貴】
映画「ブラザーフッド」で兄の遺骨の身元が判明した決め手は、身につけていた弟の万年筆でした。あの印象が私の中では非常に強いのですが、リアリティを追求した作品でしたから、当時であれば、その描写は妥当であったと思います。
blue-black-osaka.hatenablog.com