釜山の近代化

…というのを最近ちょっと考えているのだけど。

釜山近代歴史館
釜山博物館第2展示室

この手の施設を訪れてみて、このブログにあるような感想を、私自身も抱かないわけではない。

2002年のW杯やKTX開業といった今日の釜山の町並みを紹介したパネルもありましたが、開港からそこまでに至る?動線?が判然としない。日帝は開港以来「侵略と収奪」の限りを尽くしたようですが、それなら釜山が近代都市へと変貌し、極東の一大ハブ港湾へと飛躍した原動力はいったい何だったのか、そこら辺のベクトルと申しますか、歴史の連続性がまったく見えてこないのですね。

日帝の手による港湾整備、市街地計画、鉄道敷設等が「韓半島は勿論、大陸侵略の足掛かり」という思惑に基づくものであったとしても、結果的に釜山の近代化と住民に寄与した──社会資本の整備や市場経済の導入プロセスと<日帝36年>が同時並行であったのは間違いないでしょう。その辺を捨象して<親日派(対日協力者)vs民族主義者>といった単純な二項対立で語れるほどあなた方の歴史は単純なのか?と逆に問いたい思いもいたします。

http://blog.goo.ne.jp/tsubamerailstar/e/90958190356e1e667f9d94c8244c463a

ただ、「結果的に」であれどうであれ、「日本が釜山の近代化に寄与したか否か」という議論の立て方自体の不毛さもまた、私が感じるところ。

ここなどを読んだりして少し調べれば分かることだけど、現在の釜山、特に釜山鎮から南浦洞あたりの海沿いの平地や港湾あたりは1900年代から1930年代にかけての埋め立てでできた土地なわけで、「近代都市としての釜山」そのものの形成に日本が関与したことは紛れもない事実。

釜山に暮らす人々は、その土地・その都市で、植民地時代を過ごし、光復を迎え、臨時首都として朝鮮戦争を経験し、4.19革命や経済成長や釜馬民主抗争や民主化や…といった激動の時代を生き抜いてきた。こうした一連の過程の連関を否定したところで否定できるものでもないし、日帝36年のあれこれを釜山の歴史から切り離してなかったことにするわけにもいかない。
歴史にはリセットボタンはないのです。

「日本が釜山の近代化に寄与した」という議論は、そうした否定的議論が否定しきれない隙間を突いて、ホットイシューになる。両者は、アクションに対するリアクションという一つのペアである。同じ議論の裏表とも言えるかも知れない。

そんな議論とは次元を異にするところで、人間の生活が集積した都市として、釜山は近代史上に存在し続けている。そのような生活事実の場としての「釜山」を、ナショナリズムや植民地近代化論を離れたところで、描き出せないだろうか。


そんな都市史、地方史の可能性を、ここのところ夢想したりしています。
ええそうです、小人閑居してうんたらかんたらというやつです。