…生きていく所存です。そのことの価値を外から見出されることがあるかどうかは、私の知ったことではありません。
できることなら、ほんの片隅でいいですから、そうした希少種でも生きていけるような世界であることを、私は望んでいます。そうでないと私、今生では生きていけませんから。
地球上に65億人からの人間がひしめいているというのは、どう考えても「勝つものが総取りする」よりは「乏しい資源をわかちあう」ことに知的リソースを投じる歴史的条件である。
そして、「乏しい資源をわかちあう」ための方法は生物学的には一つしか知られていない。
それは何度も申し上げている通り、種の「ニッチ化」である。
他の集団とそのふるまいができるだけ「かぶらない」ようにする。
「ガラパゴス化」とは、「ニッチ化」のひとつのかたちだと私は理解している。
私が英語の公用語化趨勢に対して深く懐疑的であるのは、それが「ニッチの壁」を破壊しかねないからである。
「日本では英語が通じない」という事実を多くの人は「恥ずべきこと」として語るけれど、それは短見というものである。
日本では英語が通じないという「言語障壁」によって、これまで国内市場は海外企業の進出を抑制してきた。
私の知る限りでも、日本の大学はこの言語障壁で危機をまぬかれたことがある。
覚えておられる方はもう少ないだろうが、1990年代に日本にアメリカの大学が一斉に進出してきたことがあった。
一時期は全国に数十校が展開したが、そのほとんどは数年を経ずして廃校となった。
それは教育プログラムが英語ベースだったからである。
学生たちは授業についてゆけずに、次々と脱落したために、たちまち廃校になった。
その後、ディプロマミル(学位工場)が東アジア一帯で修士博士の学位を商品として売りさばいて、各国の大学で大きな問題を引き起こしたが、日本では学位を金で買った教員は二桁にとどまった(論文を英語で書かなければいけない仕組みが「幸い」したのである)。
世界的なスケールの詐欺(学位や名誉メダルやクラブへの勧誘などなど)のDMは私のところにもよく来るけれど、英語の詐欺口上を読むのが面倒なので、そのままゴミ箱に棄ててしまう。
「日本では英語では商売ができない」ということで、市場開発にコストをかける気のないビジネスマンは他のもっと手間のかからない「狩り場」に獲物を探しに行ってしまう。
http://blog.tatsuru.com/2010/07/07_1244.php
ついでにもう一か所。男女雇用機会均等法が掲げた理念と、それがもたらした結果との落差については、現場に立って働いている人ならきっと誰もが知っていることでしょう。
もっとも、「知っててもよさそうな人なのにねえ…」ってのも、しばしば見聞しますが。
英語の公用語化に私が懐疑的なのは、それがこの言語障壁を解除してしまう可能性があるからである。
英語の公用語化は、海外からの求職者に雇用機会を開放するということとセットで行われる。
必ずそうなる。
これによって、日本の企業経営者は「労働条件を吊り上げ、労働条件を切り下げる」チャンスを手に入れる。
かつて男女雇用機会均等法によって、日本の資本主義企業は求職者の数を二倍にした。
それによってよりクオリティの高い労働力をより安価な労賃で働かせることが可能になった。
英語公用語化は第二の「男女雇用機会均等法」だと私は思っている。
その本質は「日本人・非日本人雇用機会均等法」である。
外形的には「政治的に正しい」ポリシーであり、このロジックに正面から反対することはむずかしい。
けれども、企業経営者たちは「政治的に正しい」からそのような雇用戦略を採用するわけではない。
端的にその方が儲かるからそうするだけである。
雇用機会の拡大によって就労競争が激化し、就労者の質が上がり、一方で労働条件の切り下げが可能になる。
だから経営者たちは英語公用語化に踏み切る。